賤民(江戸時代) (せんみん)
【概説】
江戸時代の身分秩序において、支配身分(武士)や平民(農・工・商)の下に置かれ、不当な差別と厳しい制限を受けた被差別階級。主に「かわた(穢多)」や「非人」などに大別され、居住地や職業、服装、婚姻など社会生活全般にわたる制限を強いられた。近世幕藩体制を維持・補強するための社会統制策として再編・固定化された存在である。
近世賤民の二大潮流――「かわた」と「非人」
江戸時代の賤民身分は、主に「かわた(穢多)」と「非人(ひにん)」に大別され、それぞれ社会的な役割や位置づけが異なっていた。
「かわた」は主として皮革の加工や武具の製造、行刑の役、斃牛馬(へいぎゅうば)の処理などを生業とした身分であり、中世以来の職能集団が近世に再編されたものである。彼らは自立した職業集団として家を継承し、独自の村落(枝郷や役村など)を形成して生活していた。江戸幕府は、関八州の被差別民を統括する頭領として浅草の弾左衛門(だんざえもん)に強い権限を与え、組織的な支配を行った。
これに対して「非人」は、病気や貧困によって共同体から脱落した者や、刑罰(非人手下)によって身分を落とされた者から構成された。非人は物乞いや清掃、芸能、警備などを生業とし、一定の年限を過ぎて親族が引き取れば「身分引き上げ」によって平民に戻ることができるなど、固定化された世襲身分であった「かわた」に比べると流動的な側面を持っていた。
幕藩体制と差別政策の意図
戦国時代までの比較的流動的であった社会構造から、豊臣秀吉の兵農分離、そして江戸幕府による身分固定化の過程で、賤民身分もまた法的に再編・制度化された。支配層はこれら賤民身分を最底辺に位置づけることで、農民や町人といった平民階級の日常的な不満を逸らす「安全弁」として機能させた側面がある。
さらに、近世の支配者は彼らに対して、居住区の限定(隔離)、特定の衣服や髪型の強制(例えば、かわたは草履を履くことが禁じられ、非人は髪を結うことが制限された)、平民との婚姻の禁止など、目に見える形で差別を明文化した。これにより、平民との間に絶対的な境界線が引かれ、差別意識が庶民の間に深く植え付けられることとなった。
排他的特権としての生業とその変容
過酷な差別の影で、賤民身分には特定の生業に対する独占的権利(職分・株)が認められていた。例えば、皮革の処理や武具製造、犬猫などの斃獣処理、さらには一部の芸能活動や清掃業などは、彼らのみに許された独占事業であった。これは単なる抑圧だけでなく、近世社会における彼らの生存権を一定程度保障する仕組みでもあった。
しかし、江戸中期以降、商品経済の発達にともなって彼らの保有していた排他的特権や経済活動は平民層に侵食され、しばしば摩擦や対立が生じるようになった。さらに、幕末期から明治維新期にかけて社会構造が激変する中で、これらの特権的生業が揺らぎ、彼らの生活は困窮していくこととなった。この経済的自立の崩壊と差別的構造の残存が、のちの近代における解放運動(水平運動)へとつながる歴史的背景を形作っていくこととなる。