東慶寺 (とうけいじ)
【概説】
相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)にある臨済宗の寺院。江戸時代において、夫との離縁を望む女性が駆け込むことで合法的に離婚を成立させることができる「縁切寺(駆込寺)」として、江戸幕府から公認された特権的な尼寺である。
創立の背景と「駆込寺」への発展
東慶寺は、鎌倉時代の弘安8(1285)年、鎌倉幕府第8代執権・北条時宗の未亡人である覚山尼によって開創された。創立当初から格式の高い尼寺であり、室町時代には「尼五山」の第二位に列せられている。
江戸時代に入ると、豊臣秀頼の娘である天秀尼が住持となった。天秀尼は、大坂夏の陣ののちに徳川秀忠の娘・千姫(天樹院)の猶子(義理の娘)となった人物である。この縁故により、東慶寺は徳川将軍家から強い庇護を受け、独自の寺法(縁切寺法)を幕府から認められることとなった。これにより、上野国(群馬県)の満徳寺と並ぶ、天下に二つだけの「公認の縁切寺」としての地位を確立した。
家父長制社会における救済システムとその意義
江戸時代の法制度では、婚姻の主導権は家長である夫の側にあり、夫から妻へ「三行半(みくだりはん)」と呼ばれる離縁状を渡すことでしか離婚は成立しなかった。女性側から離婚を請求する権利は事実上認められていなかったのである。
しかし、東慶寺に女性が駆け込んだ場合、寺が夫の家や役人との間に入って調停を行った。それでも夫が離婚に応じない場合は、女性が東慶寺で2年間(当初は3年間)の修行(寺仕え)を全うすれば、寺の権威によって強制的に夫から離縁状を書かせ、離婚を成立させることができた。この特権を「寺法」と呼ぶ。
門前に着物を投げ入れるだけでも駆け込みが認められるなど、東慶寺は封建的な家父長制社会において、DV(家庭内暴力)や不条理な扱いに苦しむ女性を法的に保護するアジール(聖域・避難所)の役割を果たした。明治6(1873)年に司法省によって縁切寺法が廃止されるまで、この独自の救済システムは維持され、数多くの女性たちを救い続けた。