日明貿易 (にちみんぼうえき)
【概説】
室町幕府と中国の明朝との間で行われた、朝貢形式による国家間貿易。密貿易を行う倭寇(前期倭寇)と正式な遣明船を区別するため「勘合」という割符を用いたことから、勘合貿易とも呼ばれる。室町時代の経済発展や文化に多大な影響を与えた。
日明貿易の背景と開始
14世紀後半、東アジア海域では日本の松浦党などを中心とする海賊集団、いわゆる前期倭寇が猛威を振るい、朝鮮半島や中国沿岸を荒らしていた。1368年に建国された明朝は、海禁政策をとって私貿易を禁じる一方で、近隣諸国に対しては中華皇帝に服属して貢物を捧げる朝貢体制への参加を求めた。明は倭寇の鎮圧を日本側に強く要求し、九州探題の今川了俊などに使者を送っていたが、当初は国交樹立には至らなかった。
状況が変化したのは、南北朝の動乱を終結させた室町幕府第3代将軍の足利義満の時代である。義満は幕府の財政基盤を強化するため、莫大な利益をもたらす対明貿易に強い関心を抱いていた。1401年、義満は博多の商人である肥富(こいとみ)と禅僧の祖阿を明に派遣し、国交を求めた。明の建文帝はこれを喜び、義満を「日本国王」に封じる詔書を与えた。続く永楽帝の時代である1404年、日明間の正式な貿易条約が結ばれ、ここに日明貿易(勘合貿易)が開始された。義満が「日本国王臣源」として明の皇帝に臣従する形式をとったことは、日本の伝統的な華夷思想から批判されることもあったが、実利を優先した現実的な外交政策であったといえる。
勘合を用いた貿易の仕組み
日明貿易の最大の特徴は、勘合(勘合符)と呼ばれる割符を用いたことである。これは、公式の使節(遣明船)と倭寇を厳密に区別するための身分証明書であった。明から日本に「本字勘合」、日本から明に「日字勘合」が交付され、船が明の港(寧波など)に入港する際、底簿(控え)と照合して合致した場合のみ、正式な使節として上陸と貿易が許可された。
貿易の形態は、あくまで「朝貢」という形式をとった。日本側が献上する「進貢品」に対し、明の皇帝が恩賜として与える「回賜(かいし)」という建前であった。しかし実際には、進貢品に対する回賜は非常に恩恵的な価格で算定されたため、日本側に莫大な利益をもたらした。また、使節団に同行した商人たちが持参した「付搭貨物(ふとうかもつ)」の民間取引も一定の制限のもとで認められており、これも大きな利益を生んだ。
主な輸出品と輸入品
日本からの主な輸出品は、銅、硫黄、刀剣、扇、漆器などであった。特に日本刀はその切れ味と美術的価値から明で高く評価され、大量に輸出された。一方、明からの輸入品は、生糸、絹織物、陶磁器、書画、書籍、香木、そして銅銭(明銭)であった。
当時、日本国内では貨幣の鋳造が行われておらず、宋銭や元銭に加えて、明から輸入された永楽通宝や洪武通宝などの銅銭が大量に流通し、貨幣経済の発展を大いに促進した。また、輸入された中国の書画や陶磁器などの「唐物(からもの)」は、足利将軍家や有力大名、禅僧の間で珍重され、北山文化や東山文化といった室町時代の文化的発展に深い影響を与えた。
貿易主導権の変遷と寧波の乱
当初、日明貿易は室町幕府が主導していたが、幕府の権力が衰退するにつれて、有力な守護大名や寺社(相国寺や天龍寺など)が遣明船を仕立てるようになった。15世紀後半の応仁の乱以降は、堺を拠点とする管領家の細川氏と、博多や山口を拠点とする西国の有力大名・大内氏が、貿易の主導権を巡って激しく対立するようになった。
この対立が頂点に達したのが、1523年に明の貿易港である寧波(ニンポー)で発生した寧波の乱である。細川氏と大内氏の遣明船が同時期に入港した際、明の役人を巻き込んだ武力衝突に発展した。この事件で勝利した大内氏が日明貿易を独占することとなったが、明側は日本の使節の横暴に警戒を強め、貿易の制限を厳しくすることとなった。
日明貿易の終焉と歴史的意義
大内氏はその後も独自の遣明船を派遣し莫大な利益を上げていたが、1551年に大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反によって滅亡すると(大寧寺の変)、遣明船の派遣主体が消滅した。その結果、1547年に派遣された遣明船が事実上最後の公式貿易となり、日明貿易は途絶した。これ以降、東アジアの海上交易は、後期倭寇(中国人を中心とする海賊・密貿易商人)や、新たに来航し始めたポルトガル・スペインなどのヨーロッパ勢力(南蛮人)による交易へと移行していくことになる。
日明貿易は約1世紀半にわたり、日本に莫大な経済的利益と先進的な中国文化をもたらした。特に、大量の銅銭の流入は室町時代の全国的な流通経済・貨幣経済の確立を決定づけ、後の商業発展や近世社会への移行の基礎を築いた点において、日本経済史・文化史における極めて重要な転換点であったと評価できる。