食い逃げ解散 (くいにげかいさん)
【概説】
1937年(昭和12年)3月、林銑十郎内閣が昭和12年度予算の成立直後に衆議院を突如解散した出来事。政党側が協力して予算を成立させた直後、だまし討ちのように行われたため、世論や政党から激しい非難を浴びた。
林内閣の政党排撃と予算成立
1936年の二・二六事件以降、陸軍を中心とする軍部の政治的発言権は急速に強まっていた。広田弘毅内閣の退陣後、宇垣一成の組閣が陸軍の陸相不推薦により流産すると、1937年2月に陸軍大将の林銑十郎が内閣を組織した。林内閣は「祭政一致」や「挙国一致」を掲げ、既成政党を既得権益層として敵視する姿勢を明確にし、閣僚から政党員を排除する「挙国一致実質化」を断行した。
これに対し、衆議院の二大政党であった立憲民政党と立憲政友会は反発したものの、緊迫する国際情勢などを考慮し、軍事費が膨張した昭和12年度国家予算案を無修正で速やかに可決させた。政党側としては、予算成立への協力によって内閣との協調・妥協点を見出そうとする思惑があった。
不意打ちの解散とその代償
しかし林首相は、予算が成立したまさにその日である1937年3月31日、突如として衆議院を解散した。これが「政党に予算(食い物)を通させながら、用済みとなれば対価を払わずに追い出す行為」であるとして、「食い逃げ解散」と揶揄された。林側には、不意打ちの解散総選挙によって既成政党を打倒し、軍部に好意的な新勢力を台頭させる目算があったとされる。
同年4月に行われた第20回衆議院議員総選挙の結果、林内閣を支持する親軍派勢力は壊滅的な惨敗を喫した。一方で、民政党・政友会の両既成政党が合算で圧倒的多数を維持し、さらに軍部に批判的な無産政党である社会大衆党が議席を倍増させて躍進した。民意の猛反発を受けた林内閣は、政権維持を模索したものの支持を得られず、同年6月に総辞職へ追い込まれた。この一連の混乱は、軍部による強硬な政治主導に対する、議会政党側の最後の組織的な抵抗劇でもあった。