勘合貿易

日明貿易において、正式な使節であることを証明する割符を用いて行われた貿易の形式を何というか?
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勘合貿易

1404年〜1547年

【概説】
室町時代に行われた日明貿易のうち、正式な貿易船の証明書である勘合(符)を用いて行われた朝貢貿易。1404年に室町幕府第3代将軍の足利義満が開始し、明の海禁政策下において倭寇(前期倭寇)と正規の使節を厳格に区別する目的で実施された。16世紀半ばまで約1世紀半にわたって継続し、日本の経済発展や文化形成に多大な影響を与えた。

日明関係の修復と貿易の開始

室町幕府第3代将軍の足利義満は、南北朝の合一を果たして国内権力を確立した後、明との正式な国交樹立を模索した。当時の東アジア海域では倭寇(前期倭寇)と呼ばれる海賊集団が猛威を振るっており、明の建国者である洪武帝は周辺国に対して倭寇の鎮圧を強く求めていた。義満は1401年(応永8年)に祖阿と博多商人・肥富を明に派遣し、国交を打診する。その結果、1403年に明の永楽帝から「日本国王」に封じられ(冊封)、日本は明の臣下として貢物を献上する朝貢体制に組み込まれることとなった。

これにより、翌1404年(応永11年)から公式な国交に基づく貿易が開始された。義満が中華帝国に対する「臣従」という屈辱的ともとれる形式を受け入れた背景には、貿易によって得られる莫大な経済的利益への期待や、明の権威を利用して幕府の国内支配を盤石にするという高度な政治的計算があった。

勘合の仕組みと朝貢貿易の実態

明は民間人による私的な対外貿易を禁じる海禁政策をとっていたため、外国との貿易は国家間の公式な使節による朝貢貿易に限定されていた。この際、正式な貿易船と倭寇などの密貿易船を区別するために用いられた割符が勘合(勘合符)である。日本側にはあらかじめ「本字勘合」が渡され、明側が保管する「底簿」と照合して真贋を確認する厳格なシステムが採用された。

貿易の形態は、日本側が献上する「進貢物」に対し、明の皇帝がその返礼として下賜する「回賜(かいし)」という建前がとられた。しかし、使節団はこれとは別に、自らの持ち物を明の指定地で取引する「付搭物(ふとうぶつ)」による私貿易も認められていた。日本からの主な輸出品は銅・硫黄などの鉱物資源や、刀剣・扇・漆器などの高度な工芸品であった。一方、明からは生糸・絹織物のほか、大量の明銭(永楽通宝など)、陶磁器、書画などが輸入された。特に大量に流入した銅銭は日本の貨幣経済を大きく飛躍させ、珍重された唐物(からもの)は北山文化や東山文化といった室町文化の形成に決定的な役割を果たした。

幕府の衰退と主導権の変遷

勘合貿易は義満の死後、中華思想への反発を抱いた第4代将軍・足利義持によって一時中断されたが、第6代将軍・足利義教の代に幕府財政の再建を目的として再開された。しかし、1467年に勃発した応仁の乱以降、室町幕府の権力が衰退すると、貿易の実権は幕府の手から有力な守護大名へと移っていった。

特に、瀬戸内海から畿内を地盤とし堺の豪商と結びついた管領家の細川氏と、西国を地盤とし博多の豪商と結びついた大内氏が、勘合貿易の主導権をめぐって激しい争いを繰り広げるようになった。彼らは実権を失った幕府の名義を利用しながら、それぞれ独自に遣明船を仕立て、対明貿易がもたらす莫大な利益を独占しようとしたのである。

寧波の乱と勘合貿易の終焉

細川氏と大内氏の対立は、1523年(大永3年)に明の主要な貿易港であった寧波(ニンポー)において大規模な武力衝突に発展した。これを寧波の乱という。新旧の勘合の有効性を巡って発生したこの事件において、明側の役人を贈賄で抱き込んだ大内氏が、細川氏の船団を焼き討ちにして勝利を収めた。以降、勘合貿易は大内氏によって実質的に独占されることとなる。

しかし、1551年に大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反によって自害に追い込まれ(大寧寺の変)、大内氏が滅亡したことで、事実上、勘合貿易の担い手は消滅した。大内氏が派遣した1547年(天文16年)の遣明船(1549年帰国)が、歴史上最後の勘合貿易となった。正規の貿易ルートが途絶えた結果、明の海禁政策の弛緩も相まって、中国東南沿海部を中心に日中双方の海民が結びついた密貿易が活発化し、後期倭寇が跳梁跋扈することとなった。勘合貿易の終焉は、東アジアの海域世界が新たな転換期を迎えたことを意味していた。

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最終更新:2026年6月20日 @ 14:54

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