西原借款

寺内正毅内閣が中国における日本の権益拡大のため、段祺瑞政権に対して行った総額1億4500万円にのぼる借款は何か?
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重要度
★★

【参考リンク】
西原借款(Wikipedia)

西原借款 (にしはらしゃっかん)

1917〜1918年

【概説】
第一次世界大戦期の日本において、寺内正毅内閣が中国の段祺瑞政権に対して行った巨額の非公式財政援助。首相の私設使節である西原亀三を窓口とし、経済的支援を通じて中国国内における親日政権の確立と権益確保を図った。しかし、貸付金の多くは内戦の軍費に流用されて回収不能となり、のちの日本財政に深刻な打撃を与える結果となった。

寺内内閣の「対中協調」への方針転換

大隈重信内閣が1915年に突きつけた対華二十一カ条要求は、中国国民の激しい反日感情を呼び起こし、欧米列強(特にアメリカ)からの強い警戒と不信を招いた。これを受け、1916年に成立した寺内正毅内閣は、武力を背景にした強硬な対中外交を改め、経済的支援を通じて中国を日本の勢力圏に抱き込む「日中親善」へと方針を転換した。

この政策を実行するため、寺内首相は自身の腹心であった民間人・西原亀三(にしはらかめぞう)を私設使節として北京に派遣した。当時、欧米列強は第一次世界大戦の戦中にあり、東アジアに介入する余力がなかった。寺内内閣はこの国際状況の隙を突き、日本単独の経済支援によって中国への影響力を一挙に拡大しようと試みたのである。

借款の実施と段祺瑞政権の思惑

西原亀三は、北京政府の実権を握る安徽(あんき)派の軍閥首領・段祺瑞(だんきずい)の側近と極秘裏に交渉を重ねた。1917年から1918年にかけて、朝鮮銀行、台湾銀行、日本興業銀行の三行(特別銀行)を融資元として、電信、鉄道、森林鉱山などの産業開発名目で次々と借款契約が結ばれた。これが「西原借款」である。その総額は、公認・非公認を合わせて約1億4500万円(当時の国家予算の1割以上に相当する巨額)にのぼった。

段祺瑞政権にとって、この資金は極めて魅力的であった。当時、段祺瑞は中国南部の革命派(孫文ら)を武力で平定し、国内を強権的に統一するための軍費を必要としていたからである。段は借款の引き換えとして、山東省の旧ドイツ権益の継承や、満蒙(満洲・蒙古)における日本の利権を事実上容認する秘密協定を交わした。

借款の破綻と日本財政への代償

近代化事業の名目で供与された莫大な資金であったが、その実態は、段祺瑞政権が内戦を戦うための軍資金として浪費された。やがて1918年に第一次世界大戦が終結すると、東アジアの国際秩序は一変する。1919年のパリ講和会議において、日本による山東省権益の継承に抗議する五四運動(反日愛国運動)が中国全土に沸き起こると、親日派である段祺瑞政権は激しい世論の糾弾を浴び、1920年に政争に敗れて失脚した。

段祺瑞の失脚により、西原借款の大部分は回収不能(焦げ付き)となった。融資を行った特別銀行の破綻を防ぐため、日本政府は最終的に国庫から多額の国債を発行してこの損失を補填せざるを得なくなった。この財政負担は、第一次世界大戦後の戦後恐慌に苦しむ日本経済の重大な足枷となり、1920年代後半の昭和金融恐慌へと至る慢性的な不況の遠因となった。また、中国民衆に対して「日本の資金が内戦を泥沼化させた」という強い不信感を植え付ける結果となった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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