浄土真宗(一向宗) (じょうどしんしゅう(いっこうしゅう)
【概説】
鎌倉時代前期に親鸞によって開かれた大乗仏教の宗派。法然の教えを発展させ、阿弥陀仏の「絶対他力」による救済と「悪人正機」の思想を説き、後に農民や武士層に広く浸透した。室町時代以降は「一向宗」とも呼ばれて強大な結束力を誇り、一向一揆を起こすなど中世から近世にかけての日本社会に多大な影響を与えた。
親鸞による開宗と「絶対他力」「悪人正機」の思想
浄土真宗は、鎌倉時代前期に比叡山を下りた親鸞によって開かれた。親鸞は師である法然が説いた「専修念仏(ひたすら念仏を唱えれば極楽浄土へ行けるという教え)」をさらに徹底させ、阿弥陀仏の「本願(すべての人を救うという誓い)」に完全に身を委ねる絶対他力の思想を確立した。親鸞の思想によれば、念仏を唱えるという行為そのものすら、自らの修行の成果(自力)ではなく、阿弥陀仏から与えられたものであるとされた。
この親鸞の教義を最も特徴づけるのが悪人正機説である。弟子が親鸞の言葉を記したとされる『歎異抄』には、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という有名な一節がある。これは、「自らの煩悩の深さを自覚し、自分の力ではどうにもならないと知る者(悪人)こそが、阿弥陀仏の救済の主たる対象である」という極めて逆説的かつ革新的な教えであった。また、親鸞自身が「非僧非俗」の立場をとって肉食妻帯を公然と行うなど、既存仏教の厳しい戒律を真っ向から否定した点も、中世社会において画期的であった。
鎌倉時代の布教と門徒集団の形成
親鸞自身には独立した宗派を開くという意図は希薄であり、生涯を「法然の弟子」と自認していた。しかし、彼が越後国への流罪を経て関東地方(常陸国など)を中心に行うようになった布教活動は、当時の名主層や農民に深く受け入れられた。彼らは各地で「門徒」と呼ばれる強固な信仰集団を形成し、合議制の集会などを通じて横の結びつきを強めていった。
親鸞の死後、彼を慕う門徒たちや血縁者(娘の覚信尼など)によって霊廟(後の本願寺)が守られ、高弟たちも各地で独自の教団(専修寺や佛光寺など)を組織していった。こうして、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて「浄土真宗」という一つの宗派としての実体が徐々に形成されていったのである。
蓮如の登場と「一向宗」の爆発的普及
浄土真宗が日本仏教における最大勢力の一つへと飛躍を遂げるのは、室町時代中期、本願寺第8世の蓮如(れんにょ)が登場してからのことである。当時の本願寺は比叡山延暦寺などの旧仏教勢力からの弾圧を受けて衰退していたが、蓮如は平易な仮名書きの手紙である「御文(おふみ・御文章)」を用いて教義を分かりやすく解説し、各地を精力的に巡回した。
蓮如の布教活動は、折しも発展しつつあった村落共同体である「惣村」の農民たちの心を見事に捉えた。彼らは「講」と呼ばれる信仰組織を通じて強固な連帯を築き上げた。この時期から、ひたすら阿弥陀仏に向かうという意味や、あるいは他宗派からの他称として、浄土真宗の門徒たちは一向宗と呼ばれるようになる。教団は畿内から北陸、東海地方にかけて爆発的に拡大を遂げた。
一向一揆の展開と権力との対立
戦国時代に入ると、絶対他力の平等思想と強固な団結力を持つ一向宗の門徒たちは、単なる宗教集団の枠を超え、大名権力に対抗する政治的・軍事的な実力組織としての「一向一揆」を各地で展開するようになった。最も有名なのが1488年の加賀の一向一揆であり、門徒たちは守護大名の富樫政親を自刃に追い込み、以後約1世紀にわたって「百姓の持ちたる国」と呼ばれる門徒主導の自治体制を維持した。
一向宗の強大な権力は、戦国大名にとって無視できない脅威であった。特に織田信長による天下統一事業においては、本願寺第11世・顕如のもとに結集した一向宗勢力との間で約10年に及ぶ壮絶な石山合戦(1570〜1580年)が繰り広げられた。最終的に本願寺側は信長と和睦して武装解除したが、この激しい抵抗は一向宗の持つ民衆動員力の底知れなさを歴史に刻むこととなった。江戸時代に入ると、幕府の巧妙な宗教政策によって本願寺が西本願寺と東本願寺に分裂させられるなど、その巨大な影響力は時の権力者から常に警戒され、厳しい統制の対象とされ続けたのである。