親鸞

法然の弟子として教えを深め、「煩悩の深い悪人こそが阿弥陀仏の救いの対象である」という悪人正機説を説いた浄土真宗の開祖は誰か?
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重要度
★★★

親鸞 (しんらん)

1173〜1262

【概説】
鎌倉時代前期から中期にかけて活躍した僧で、浄土真宗の開祖。法然の弟子として専修念仏の教えを受け継ぎ、煩悩を抱えた凡夫こそが阿弥陀仏の救済の対象であるとする「悪人正機」を説いた。弾圧によって僧籍を剥奪されたのちも「非僧非俗」の立場を貫き、絶対他力の教えを民衆に広めた。

比叡山での修行と法然との出会い

親鸞は下級貴族の出身とされるが、幼くして両親と死別し、9歳で出家して比叡山延暦寺に入った。約20年間にわたり堂僧として厳しい修行(自力修行)に励んだものの、どれほど修行を重ねても自らの内にある煩悩を断ち切ることができず、深い絶望と限界を感じていた。

建仁元年(1201年)、比叡山を下りて六角堂に百日参籠した親鸞は、聖徳太子の示現(夢告)を受け、東山吉水で専修念仏を説いていた法然(浄土宗の開祖)を訪ねた。法然の「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という教えに触れた親鸞は、自力による悟りを諦め、阿弥陀如来の本願(他力)にすべてを委ねる道を見出し、法然の弟子となった。

承元の法難と「非僧非俗」の宣言

法然の専修念仏は、南都北嶺の旧仏教勢力から激しい反発を受けた。建永2年(1207年)には後鳥羽上皇の怒りを買って念仏停止の弾圧を受け、法然や親鸞ら教団の中心人物が処罰された(承元の法難)。この際、法然は土佐国へ、親鸞は僧籍を剥奪されたうえで越後国(現在の新潟県)へ流罪となった。

僧侶としての身分を奪われ、俗名を与えられた親鸞は、自らを「僧に非ず、俗に非ず」とする非僧非俗(ひそうひぞく)の立場を宣言した。また、越後流罪の前後から恵信尼(えしんに)と結婚して家庭を持ち、公然と肉食妻帯(肉を食べ、妻を持つこと)を行った。これは、厳しい戒律を守れない一般の民衆と同じ生活を営みながらでも、念仏によって救済されるということを自らの生き方で示す画期的な実践であった。

東国での布教と「悪人正機」の思想

建暦元年(1211年)に流罪を赦免された後も親鸞は帰京せず、妻子を伴って常陸国(現在の茨城県)を中心とする関東地方へ移り、約20年にわたって東国の農民や下層民衆に教えを説いた。

親鸞の教えの核心をなすのが悪人正機(あくにんしょうき)の思想である。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(善人でさえ極楽往生できるのだから、悪人は言うまでもない)」という言葉に代表されるように、ここでの「悪人」とは道徳的な犯罪者ではなく、「自らの力では煩悩を断ち切れず、善行を積むことのできない凡夫」を指す。阿弥陀如来の慈悲は、そのような自力で救われない者を救うためにこそある(絶対他力)と説き、日々の労働や殺生から逃れられない武士や庶民から熱狂的な支持を集めた。関東滞在中には、自己の信仰の集大成である主著『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)の執筆を開始している。

晩年の活動と『歎異抄』

60歳を過ぎた頃、親鸞は関東の門徒を直弟子たちに託して帰京した。晩年は執筆活動に専念し、『和讃』などの著作を通して教えの深化と体系化に努め、弘長2年(1262年)に90歳で入滅した。親鸞自身はあくまで「法然の一弟子」であるという意識を貫き、新しい宗派を開く意図はなかったが、彼の死後に教団は独自の発展を遂げ、浄土真宗(一向宗)と呼ばれる一大教団へと成長した。

親鸞の死後、関東の門徒の間で本来の教えに背く異端の教説が広まるのを憂えた弟子の唯円は、親鸞の生前の語録をまとめた『歎異抄』(たんにしょう)を著した。同書は親鸞の絶対他力や悪人正機の思想を端的に伝えており、日本思想史において極めて重要な文献として今日でも広く読まれている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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