東軍(関ヶ原の戦い) (とうぐん)
【概説】
1600年の関ヶ原の戦いにおいて、五大老筆頭の徳川家康を総大将として組織された軍勢。福島正則や黒田長政ら豊臣恩顧の武断派大名が多く属し、石田三成率いる西軍を破って徳川覇権の確立に決定的な役割を果たした。
武断派と文治派の対立:東軍形成の背景
東軍が結成された背景には、豊臣秀吉の死後に顕在化した豊臣政権内部の深い亀裂が存在する。政権内では、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)などを契機として、前線で戦った福島正則や黒田長政、加藤清正らの「武断派」と、軍監や兵站を担った石田三成や小西行長らの「文治派」との間で対立が極限に達していた。1599年に武断派を抑えていた前田利家が病没すると、武断派の七将が石田三成を襲撃する事件が発生。この政治的混乱を調停し、実権を握ったのが五大老筆頭の徳川家康であった。家康は武断派の三成への憎悪を利用し、彼らを取り込むことで自らの支持勢力(のちの東軍)を形成していった。
「三成討伐」の大義名分と徳川家康の調略
1600年、家康が会津の上杉景勝討伐(会津征伐)へ向かった隙を突き、石田三成が挙兵して西軍が組織された。これに対し、家康は下野国小山での軍議(小山評定)において、従軍していた諸大名に去就を問うた。この際、豊臣家にとって最古参の有力大名である福島正則がいち早く家康への協力を表明したことで、他の大名も雪崩を打って家康に従うこととなった。家康は「豊臣家を私物化する三成を誅伐する」という大義名分を掲げ、自らの私戦ではなく豊臣家のための戦いとして東軍を正当化した。さらに、黒田長政らを通じて西軍諸将への内応工作(調略)を徹底的に行い、戦いが始まる前から東軍の優位を築き上げていった。
関ヶ原の勝利と日本史上における意義
慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国関ヶ原において両軍は激突した。兵力の上では西軍も拮抗していたが、東軍は福島正則らの猛烈な突撃に加え、事前交渉によって西軍の小早川秀秋や脇坂安治らの寝返りを引き出すことに成功した。また、毛利輝元の名代として参陣していた吉川広家が動かなかったこともあり、戦況は一日にして東軍の圧倒的勝利に終わった。東軍の勝利は、単なる一合戦の勝敗にとどまらず、豊臣政権の実質的な終焉と徳川家による天下統一を決定づけた。戦後、家康は西軍に属した大名から広大な領地を没収・削減し、東軍で功績のあった豊臣恩顧の大名(後の外様大名)を地方へ移封することで、1603年の江戸幕府開創とそれ以降260年以上続く幕藩体制の強固な基盤を確立した。