久遠寺(身延山) (くおんじ・みのぶさん)
【概説】
山梨県の身延山に位置し、鎌倉時代中期に日蓮が晩年の拠点として開創した日蓮宗の総本山寺院。佐渡流罪赦免後に幕府への諫言を退けられた日蓮が、甲斐国の地頭・波木井実長の招きで隠棲し、堂宇を構えたのが始まりである。日蓮の入滅後も法華経信仰の中心地として多くの信徒を集め、近世には大名の庇護を受けて壮大な伽藍を整備し、現在に至るまで日蓮宗の「祖山」として信仰を集めている。
日蓮の身延入山と草庵の結成
日蓮は、建長5年(1253年)に法華経こそが末法濁世を救う唯一の教えであるとして立宗宣言を行い、幕府への『立正安国論』の提出などを通じて激しい布教と他宗批判を展開した。そのため度重なる迫害を受け、文永8年(1271年)には佐渡へ流罪となった。文永11年(1274年)、流罪を赦免されて鎌倉に戻った日蓮は、幕府の重臣である平頼綱に対して三度目の国諫(国家への諫言)を行ったが、これが受け入れられることはなかった。
世俗の権力による法華経の帰依を断念した日蓮は、鎌倉を去り、信徒であった甲斐国波木井郷(現在の山梨県南巨摩郡身延町)の地頭・波木井実長(南部実長)の招きに応じて身延山に入山した。これが久遠寺の起源となる草庵の結成である。同年にはモンゴル帝国による第一回侵攻(文永の役)が発生しており、日蓮がかつて予言した「他国侵逼難」が現実のものとなっていた激動の時期でもあった。
久遠寺の開創と「久遠実成」の思想
身延に入った日蓮は、深い山林の中で読経と弟子の育成、そして全国の信徒へ向けた手紙(御遺文)の執筆に没頭した。次第に日蓮を慕って多くの弟子や信徒が身延に集まるようになり、教団の拠点としての整備が進められた。弘安4年(1281年)には、十間四面の大堂が建立され、日蓮自身によって「身延山久遠寺」と名付けられた。
「久遠寺」という寺号は、『法華経』如来寿量品において説かれる「久遠実成(くおんじつじょう)」という思想に由来している。これは、釈迦はインドに生まれて悟りを開いた歴史的な存在にとどまらず、永遠の昔(久遠)から存在する真理そのもの(本仏)であるという法華経の核心的な教えである。日蓮は、法華経の行者である自身が住まう身延の地を、この久遠の本仏が住する浄土として位置づけたのである。
入滅後の教団分裂と総本山としての発展
弘安5年(1282年)、日蓮は病気療養のために身延を離れ、常陸国へ向かう途上の武蔵国池上(現在の東京都大田区、池上本門寺)で入滅した。日蓮の死後、身延山は六老僧(日蓮が定めた6人の高弟)らによって輪番で護持されることになったが、地頭である波木井実長の振る舞いや教義の解釈をめぐって対立が生じた。その結果、六老僧の一人である日興が身延を去る(身延離山)など、教団内部に分裂の危機が訪れた。
しかし、その後も日向(六老僧の一人)を中心に身延山は護持され、日蓮宗の総本山(祖山)としての確固たる地位を築いていった。室町時代から戦国時代にかけては、甲斐国を治める武田氏の厚い保護を受けた。さらに江戸時代には、徳川家康の側室であり熱心な法華信者であったお万の方(養珠院)をはじめ、多くの諸大名から外護(げご)を受けた。これにより壮大な伽藍が整備され、法華経信仰の根本道場としての歴史的意義を現代に伝えている。