立正安国論 (りっしょうあんこくろん)
【概説】
鎌倉時代中期の1260年(文応元年)に、日蓮宗の開祖である日蓮が前執権の北条時頼に提出した建白書。相次ぐ天変地異や飢饉の原因を邪法(他宗)の蔓延にあるとし、正法である法華経に帰依しなければ内乱や他国からの侵略が起こると予言・警告した。
相次ぐ天変地異と執筆の背景
13世紀半ばの日本は、正嘉元年(1257年)の大地震をはじめ、異常気象、大火、飢饉、疫病といった深刻な災害が立て続けに発生し、多数の死者が出る惨状を呈していた。日蓮は、人々の苦悩と国土の荒廃を深く憂い、その原因を探求するために一切経(仏教経典の総集)を紐解いた。その結果、為政者や民衆が正法である法華経を蔑ろにし、浄土宗などの「邪法」を信仰しているために、国土を守護する諸天善神が国を去り、悪鬼が乱入しているからだと結論づけた。この確信に基づき、幕府の最高権力者に国家の危機を訴えるべく執筆されたのが『立正安国論』である。
問答形式による他宗批判と「二難」の予言
本書は、世を憂う「客」と、仏法を修める「主人」(日蓮自身がモデル)による全10段の対話形式で構成されている。日蓮は特に、法然が著した『選択本願念仏集』を激しく非難し、念仏の流行こそが災いの元凶であると主張した。そして、邪法への布施を止めて正法たる法華経を立てれば(立正)、国家は平穏になる(安国)と説いた。
さらに、『薬師経』や『金光明最勝王経』などの経典を引用し、経典に説かれる様々な災難のうち、まだ起きていない「自界叛逆難(内乱)」と「他国侵逼難(他国からの侵略)」の二つの難が、このままでは必ず到来すると強く警告した。
北条時頼への提出と激しい弾圧
文応元年(1260年)7月、日蓮はこの書を鎌倉幕府の事実上の最高指導者であった前執権(得宗)の北条時頼に提出した。これは単なる宗教的な教義の主張にとどまらず、為政者に対して宗教政策の根本的な転換を迫る政治的な建白であった。しかし、時頼をはじめとする幕府上層部に受け入れられることはなく、逆に浄土宗をはじめとする他宗派の信徒らを激怒させた。
提出の翌月には、暴徒化した念仏者が日蓮の草庵を襲撃する「松葉ヶ谷の法難」が発生した。さらに翌1261年には、幕府によって伊豆国へ流罪(伊豆配流)にされるなど、『立正安国論』の提出を契機として日蓮に対する度重なる激しい弾圧が始まることとなった。
予言の的中と歴史的意義
日蓮の警告は幕府に無視されたものの、その後、文永9年(1272年)に北条氏の一族内で殺し合いとなった二月騒動が勃発して「自界叛逆難」が現実のものとなった。さらに文永11年(1274年)には、モンゴル帝国(元)が日本に攻来する文永の役(元寇)が起き、「他国侵逼難」までもが的中する結果となった。この二難の予言が的中したことは、日蓮教団における日蓮のカリスマ性を決定的に高める要因となった。
『立正安国論』は、鎌倉新仏教の一つである日蓮宗の根本教典として重要であるだけでなく、為政者に対して自宗の正当性と国家のあり方を堂々と説いた点において、同時代の他の宗教者には見られない特異な思想を示している。相次ぐ災害や対外危機に直面した鎌倉時代中期の緊迫した社会情勢と、それに立ち向かった宗教者の国家観を現代に伝える第一級の歴史史料である。