狩野山楽 (かのうさんらく)
【概説】
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した狩野派の絵師。
狩野永徳の弟子(養子)として豪壮な画風を受け継ぎ、永徳の死後は豊臣氏の御用絵師として重用された。
豊臣氏滅亡後は京都に留まって「京狩野」の祖となり、『松鷹図』や『牡丹図』などの名作を後世に残した。
武将の家柄から狩野永徳の門下へ
狩野山楽は、近江国の戦国大名・浅井長政の家臣である木村氏の子として生まれた。しかし、1573年に織田信長によって浅井氏が滅亡すると、後に豊臣秀吉の小姓として仕えることとなった。武将の道ではなく絵師の道を歩むことになった背景には、秀吉が山楽の非凡な画才を見抜き、当時の画壇の頂点に君臨していた狩野永徳の門下に入るよう勧めたためだと伝えられている。
永徳の弟子となった山楽はその才能を急速に開花させ、やがて永徳の猶子(または養子)として「狩野」の姓を名乗ることを許された。安土桃山時代の狩野派は、永徳を中心に数多くの障壁画制作を抱える巨大な絵師集団となっていたが、山楽はその中でも永徳の力強く豪壮な画風を最も色濃く受け継いだ高弟の一人として頭角を現していった。
豊臣氏の御用絵師としての活躍
1590年に師である永徳が急死すると、狩野派の家督は長男の狩野光信が継いだが、権力者である豊臣政権との結びつきを強めたのは山楽であった。山楽は秀吉やその子・秀頼から深い寵愛を受け、実質的な豊臣家の御用絵師として活躍した。伏見城や大坂城、さらには豊臣家がパトロンとなって再興された寺院など、豊臣政権の威信を示すための数々の障壁画制作を手がけた。
この時期の山楽は、永徳が確立した巨大で圧倒的な「大画様式」を継承しつつ、それをさらに洗練させ、豊臣期の華やかで壮大な文化(桃山文化)を視覚的に体現する役割を担っていた。
大坂の陣による危機と「京狩野」の誕生
山楽の生涯における最大の転機は、1615年の大坂の陣(大坂の夏の陣)による豊臣氏の滅亡である。豊臣家に深く仕えていた山楽は、徳川政権下で豊臣方の残党として嫌疑をかけられ、一時は男山八幡宮などに身を隠す逃亡生活を余儀なくされた。一歩間違えれば処刑される危機であったが、彼を高く評価していた僧の松花堂昭乗や、公家の九条幸家らが幕府に助命嘆願を行った結果、徳川家康や秀忠から恩赦を受けて画壇への復帰を許された。
江戸時代に入ると、狩野光信の甥である狩野探幽らが徳川将軍家の御用絵師として江戸に下り、幕府の権威を背景に「江戸狩野」として画壇を制度化していった。これに対し、山楽は江戸には下らず京都に留まり、養子の狩野山雪とともに「京狩野(きょうがのう)」と呼ばれる一派を形成した。江戸狩野が幕府の御用を務める中で次第に形式主義に陥っていったのに対し、京狩野は京都の公家や豊かな町人層の支持を受け、装飾的で個性的な画風を展開していくこととなり、日本美術史において重要な位置を占めている。
代表作と画風の特徴
山楽の画風は、安土桃山時代のダイナミックな気風と、江戸時代初期の理知的な構成美を融合させた点に特徴がある。代表作として名高いのが、京都・大覚寺宸殿の障壁画である『牡丹図』および『松鷹図』(いずれも重要文化財)である。『松鷹図』では、永徳譲りの巨木を配した力強い構図を用いながらも、鷹の鋭い視線や羽の細部、松の枝ぶりなどが計算し尽くされたバランスで描かれている。
また、東京国立博物館に所蔵される『車争図屏風』では、『源氏物語』の有名な「車争い」の場面を題材にしつつ、描かれている人物群の生き生きとした表情や風俗は、同時代の桃山時代のエネルギーをそのまま切り取ったかのような躍動感に満ちている。激動の時代を武士として、そして豊臣家お抱えの絵師として生き抜いた山楽の人生経験が、その雄大かつ繊細な筆致に表れていると言える。