経塚 (きょうづか)
11世紀〜
【概説】
平安時代中期以降、末法思想の流行を背景に、仏教の経典を地中に埋納して築かれた塚。釈迦の入滅から56億7000万年後に現れるとされる弥勒菩薩の降臨まで経典を保存し、未来の救済を期する目的で日本各地に造営された。
末法思想の流行と経典の保存
平安時代中期、仏法が衰退する「末法」の時代が1052年(永承7年)に到来するという末法思想が社会に広く浸透した。人々は、現世の混乱や仏教の形骸化を恐れ、正しい教え(正法)を未来へと書き残そうとした。これが経塚造営の直接的な動機である。釈迦の入滅後に世界を救うとされる弥勒菩薩(みろくぼさつ)が56億7000万年後に下生(げしょう)するまで、仏教の聖典である法華経などを物理的に保護し、伝えるためのタイムカプセルの役割を果たした。
経塚の構造と藤原道長による造営
経塚の造営にあたっては、まず紙に書写した経典を、青銅や陶磁器、滑石などで作られた経筒(きょうづつ)と呼ばれる容器に納め、それをさらに頑丈な外容器や石室に収めて地中に埋め、上部に土や石を盛って塚とした。日本最古の確実な経塚は、1007年(寛弘4年)に藤原道長が大和国の霊地・金峰山(きんぷせん)に造営したものである。ここから出土した「金銅藤原道長経筒」には、道長自らの手による銘文が刻まれており、当時の貴族の極楽往生への強い願いを示す一級の史料として国宝に指定されている。経塚はその後、貴族から武士、さらには庶民へと信仰が広がるにつれて全国に普及していった。