雪どけ (ゆきどけ)
【概説】
ソビエト連邦の最高指導者スターリンの死を契機に、1950年代半ばから後半にかけて生じた東西冷戦の緩和現象。ソ連の作家エレンブルグの小説の題名に由来し、国際緊張の融和を示す象徴的な言葉として使われた。日本においては、日ソ国交回復や国際連合への加盟、国内の政治思想界の再編を促す決定的な契機となった。
国際緊張の緩和と平和共存路線の台頭
1953年3月、ソ連の絶対的権力者であったヨシフ・スターリンが死去すると、後継のソ連指導部はそれまでの強硬な対外路線を修正し始めた。特に1956年のソ連共産党第20回大会において、第一書記のフルシチョフがスターリン批判を行い、資本主義陣営との「平和共存」が可能であると表明したことは、世界に強い衝撃を与えた。これにより、朝鮮戦争の休戦(1953年)やジュネーヴ四巨頭会談(1955年)が実現し、第二次世界大戦後の極度な米ソ対立、すなわち冷戦体制は一時的な融和期(デタントの先駆)を迎えることとなった。
日本外交への波及と国際社会への復帰
この国際的な「雪どけ」の潮流は、日本の戦後外交に大きな道を開くこととなった。当時の鳩山一郎内閣は、前首相の吉田茂がとった緊密な対米協調路線を修正し、東側諸国との国交正常化を通じた自主外交の展開を模索していた。冷戦緩和という追い風のなか、1956年10月に日ソ共同宣言が調印され、日ソ両国間の国交が回復した。これにより、ソ連の拒否権行使によって阻まれていた日本の国際連合加盟が同年末に認められ、日本は名実ともに国際社会への完全な復帰を果たしたのである。
国内思想界・革新陣営への劇的な影響
「雪どけ」がもたらした衝撃は外交分野にとどまらず、日本の政治・思想界、特に革新陣営に地殻変動を引き起こした。それまでソ連を社会主義の祖国として絶対視してきた日本の知識人や左翼運動家は、フルシチョフのスターリン批判や、同年のハンガリー事件におけるソ連軍の武力介入を目の当たりにし、激しい思想的動揺を経験した。これを機に、日本共産党などの既成政党への不信感が高まり、のちの新左翼(ニューレフト)運動の誕生や、日本の社会主義運動の多極化・再編が促されることとなった。