藤原成親 (ふじわらのなりちか)
【概説】
平安時代末期の公卿であり、後白河法皇の厚い信任を受けた代表的な院近臣。平氏打倒を企てた「鹿ケ谷の陰謀」の首謀者の一人。密告によって計画が露見したため、平清盛によって捕らえられ、備前国へ配流ののちに非業の死を遂げた。
院近臣としての台頭と平氏との複雑な関係
藤原成親は、鳥羽院政期に実力者であった中納言・藤原家成の次男として生まれた。保元の乱(1156年)の後、急速に台頭した後白河法皇の側近(院近臣)となり、朝廷内での地位を確立していく。平治の乱(1159年)においては、信頼関係にあった藤原信頼らに同調して一時拘束されるが、平清盛の嫡男である平重盛の執成しによって助命された。これを機に、成親の妹が重盛の妻となり、さらに成親の娘が重盛の嫡男・維盛に嫁ぐなど、平氏一門と緊密な姻戚関係を結ぶこととなった。この二重の結びつきを背景に、成親は院政と平氏の双方から支持を得て、権中納言、さらには検非違使別当、権大納言へと急速に昇進を重ねていった。
鹿ケ谷の陰謀と平氏政権への影響
しかし、平氏一門が朝廷の官職を独占し、独自の軍事・経済権力を急速に拡大していくと、後白河法皇を頂点とする院政勢力との間に深刻な摩擦が生じるようになった。1177年(安元3年)、成親は静憲、俊寛、西光(藤原師光)らとともに、京都東山の鹿ケ谷の山荘に集まり、平氏打倒の謀議を重ねたとされる。これが鹿ケ谷の陰謀である。だが、この計画は同志であった多田行綱の密告により事前に露見し、激怒した平清盛によって成親は直ちに捕縛された。姻戚関係にあった重盛が必死の助命嘆願を行ったものの、成親は備前国(現・岡山県)へと配流され、同地で殺害(あるいは絶食死)された。この事件は、後白河法皇の側近グループを壊滅させ、平氏と院政の関係決定的な決裂へと導き、のちの平氏専制化とそれに続く源平合戦(治承・寿永の乱)への引き金となった。