鹿ヶ谷の陰謀 (ししがたにのいんぼう)
【概説】
平安時代末期の1177年(安元3年)、後白河法皇の近臣らが京都の東山鹿ヶ谷にある山荘で企てた平氏打倒の密議が、密告によって事前に露見した政変。首謀者となった藤原成親や俊寛らが厳しい処罰を受ける結果となった。急速に権力を拡大する平氏一門と、後白河院政を支える院近臣層との権力闘争が表面化した、中世移行期の画期となる事件である。
院近臣の台頭と平氏への反発
平治の乱(1159年)以降、平清盛率いる伊勢平氏の一門は武士として初めて公卿の地位を独占し、日宋貿易の利権や知行国の獲得を通じて、強大な経済力と武力を背景に朝廷での支配権を急速に強めていた。この平氏の専横に対し、強い危機感と反発を抱いたのが、後白河法皇の院政を実務面で支えていた院近臣(いんのきんしん)たちであった。
院近臣である藤原成親(ふじわらのなりちか)や西光(さいこう)、僧の俊寛(しゅんかん)らは、平氏による官職の独占が自分たちの昇進や経済的権益を脅かすものとして反発を強めていた。こうして、後白河法皇の黙認または支持のもと、彼らは京都の東山にある法勝寺執行・俊寛の山荘(鹿ヶ谷山荘)に集まり、平氏打倒の具体的な謀略を巡らせるようになった。これが「鹿ヶ谷の陰謀」の端緒である。
密告による露見と非情な弾圧
しかし、この平氏打倒の計画は、実行に移される前に内部分裂によって破綻することとなる。密議に加わっていた北面武士の多田行綱(ただゆきつな)が、形勢の不利を悟って計画の内容を平清盛に密告したのである。1177年6月、報告を受けた清盛は迅速かつ苛烈に対応し、首謀者たちを次々と逮捕した。
清盛による報復は容赦のないものであった。主謀者の一人である西光は拷問の末に即座に処刑され、大納言であった藤原成親は備前国へ流罪となったのち、現地で謎の死(一説には食を断たれたことによる餓死)を遂げた。また、俊寛や平康頼、藤原成経らは薩摩国の鬼界ヶ島(現在の硫黄島とされる)へと流刑に処された。後白河法皇の側近グループが根こそぎ排除されたことで、院政の政治基盤は一時的に崩壊した。
後白河法皇との亀裂と平氏滅亡への伏線
この事件において、後白河法皇自身がどの程度直接関与していたかについては諸説あるが、法皇の側近たちが主導した計画であったため、清盛と法皇の間の信頼関係は完全に破綻した。清盛は法皇の関与を強く疑い、一時は法皇の幽閉すら画策したが、この時は平重盛(清盛の嫡男)らの諫言もあり、法皇への直接的な処分は見送られた。
しかし、この事件によって両者の決定的な亀裂は修復不可能となり、のちの1179年(治承3年)に清盛がクーデターを起こして法皇を鳥羽殿に幽閉する治承三年の政変へと繋がることになる。武力によって貴族や院を屈服させた平氏であったが、この強硬姿勢は伝統的な門閥貴族や大寺社、さらには地方武士団の反発をさらに強める結果となり、やがて始まる治承・寿永の乱(源平合戦)と平氏滅亡へのカウントダウンを開始させる契機となった。