俊寛 (しゅんかん)
【概説】
平安時代末期の真言宗の僧侶。後白河法皇の近臣として白河法勝寺の執行を務めたが、平氏打倒の謀議である「鹿ケ谷の陰謀」に加担した。陰謀の発覚後、薩摩国の鬼界ヶ島へ流罪となり、恩赦から一人だけ除外されて悲惨な最期を遂げた。
鹿ケ谷の陰謀と俊寛の役割
平安時代末期、平清盛率いる平氏一門が朝廷の実権を握り、専横を極めるようになると、これに反発する院近臣(後白河法皇の側近たち)の間で平氏打倒の動きが具体化した。1177年(安元3年)、多田行綱の密告によって発覚した鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)である。
俊寛はこの密議の主要な舞台となった、京都東山・鹿ケ谷の山荘の持ち主であった。彼は法皇の近臣である藤原成親や西光(藤原師光)らとともに平氏打倒を画策したとされる。俊寛が務めていた「法勝寺執行」とは、白河天皇が建立した大寺院の実務最高責任者であり、当時の仏教界・政界において極めて重い地位であった。それゆえに、彼の陰謀への加担は平清盛に対して強い衝撃と怒りを与えることとなった。
鬼界ヶ島への流罪と一人残された悲劇
陰謀が発覚すると、西光は処刑され、藤原成親は備前国へ流罪(のちに殺害)となった。俊寛は、同調者であった藤原成経(成親の子)、平康頼とともに、九州の遥か南方に位置する流刑地・鬼界ヶ島(現在の鹿児島県硫黄島、あるいは喜界島とされる)へ流刑に処された。
翌1178年(治承2年)、高倉天皇の皇后である平徳子(平清盛の娘)の安産祈願、および皇子(のちの安徳天皇)誕生にともなう大赦(恩赦)が行われた。赦免使の船が鬼界ヶ島に到来し、成経と康頼の帰京は許されたが、清盛の強い怒りを買っていた俊寛だけは赦免状に名がなく、一人島に置き去りにされた。『平家物語』では、去りゆく船にしがみつき、絶望の中で泣き叫びながら砂浜に倒れ伏す俊寛の姿が劇的に描かれている。翌1179年(治承3年)、俊寛は島を訪ねてきた弟子の有王(ありおう)に看取られながら、絶食状態となり、悲痛な死を遂げた。
後世の文学・芸能への影響
俊寛の悲劇的な生涯は、史実を超えて中世から近世にかけての人々の同情を誘い、日本文学や伝統芸能の重要なテーマとして定着した。
軍記物語『平家物語』における最大の哀話として語り継がれたほか、これを題材とした能の『俊寛』、近松門左衛門による人形浄瑠璃・歌舞伎の『平家女護島(へいけにょごのしま)』などが制作され、その孤独、絶望、そして平氏への怨念がドラマチックに表現された。近代においても、菊池寛や倉田百三、芥川龍之介らが独自の解釈による小説や戯曲を執筆しており、日本における「流人の哀切」を象徴する不朽の人物像として、今なお語り継がれている。