傾斜生産方式
【概説】
第二次世界大戦直後の日本において、経済復興のため、限られた資金や資源を石炭や鉄鋼などの基幹産業に集中的に投入した経済政策。生産活動が減退し続ける悪循環を断ち切ることに成功し、戦後経済復興の出発点となった一方で、激しいインフレーションを引き起こす要因ともなった。
導入の背景:戦後日本の経済危機と「縮小再生産」
第二次世界大戦の敗戦により、日本経済は壊滅的な打撃を受けた。空襲による生産設備の破壊に加え、海外領土からの資源供給の途絶、復員や引揚げによる急激な人口増加が重なり、国内は極度の物資不足と食糧難に見舞われていた。とりわけ深刻だったのが、当時の基幹エネルギーであった石炭の生産激減である。石炭が不足することで鉄鋼生産が落ち込み、鋼材が不足することでさらに炭鉱設備の補修や近代化が進まず石炭が減産されるという、経済全体が縮小していく「縮小再生産」の危機に直面していた。
政策の立案とメカニズム:有沢広巳の構想
この危機的状況を打破するため、第1次吉田茂内閣のもとで設置された経済安定本部を中心に新たな経済政策が模索された。そこで、マルクス経済学者の有沢広巳らが中心となって立案したのが傾斜生産方式である。
この方式のメカニズムは、まずアメリカから輸入した重油を鉄鋼業に優先的に配分して鋼材を増産し、その増産された鋼材を炭鉱に集中的に投入して石炭を増産させる。そして、増産された石炭を再び鉄鋼業をはじめとする重要産業へ重点的に供給するというものであった。限られた資源を全産業に薄く広く配分するのではなく、特定の基幹産業に「傾斜」させて投じることで、経済全体を拡大再生産の軌道に乗せることを企図したのである。
資金面での裏付け:復興金融金庫の設立と展開
資源の傾斜配分を金融面から強力に後押しするため、1947(昭和22)年1月に復興金融金庫(復金)が設立された。復金は、民間銀行ではリスクが高く融資困難な石炭・鉄鋼・電力などの基幹産業に対し、巨額の資金を供給する役割を担った。
同年に成立した片山哲内閣(日本社会党中心の連立内閣)のもとではさらに国家統制的な色彩が強まり、臨時石炭鉱業管理法(炭鉱国家管理法)が成立するなど、政府主導での増産体制が敷かれた。これにより、石炭と鉄鋼の生産量は目標に向けて飛躍的に回復し、傾斜生産方式は所期の目的である「縮小再生産の阻止」に見事成功した。
政策の終焉と歴史的意義:「復金インフレ」からドッジ・ラインへ
一方で、この政策は経済に深刻な副作用をもたらした。復興金融金庫による莫大な融資資金の大部分は、発行した復金債を日本銀行が直接引き受ける(日銀引受け)ことで調達されていたため、市場に通貨が大量に供給され、「復金インフレ」と呼ばれる猛烈なインフレーションを引き起こしたのである。
このインフレを収束させ、日本経済を国際市場に復帰させるため、1949(昭和24)年にアメリカからGHQの経済顧問として銀行家のジョゼフ・ドッジが来日した。彼は徹底した超均衡予算であるドッジ・ラインを実施し、復興金融金庫の新規融資を全面停止させた。これにより傾斜生産方式はその役割を終えることとなった。
激しいインフレを招き、アメリカの対日援助(ガリオア・エロア資金)に依存していたという限界はあったものの、傾斜生産方式が戦後日本経済を最悪の崩壊的危機から救い出し、その後の高度経済成長へと至る自立的な産業復興の不可欠な足場を築いたという点で、戦後経済史における歴史的意義は極めて大きい。