南島 (なんとう)
7〜8世紀
【概説】
古代の律令国家において、薩摩・大隅半島の南方に連なる奄美群島や沖縄諸島などの島々を指した呼称。大宰府の管轄下に置かれ、現地の有力者が貢物を携えて来朝するなどの朝貢が行われた。
律令国家の境界と「化外の民」としての南島
古代の日本(律令国家)は、天皇の支配が直接及ぶ領域の外部に「化外(けがい)」と呼ばれる異民族の地を想定していた。北東の「蝦夷」、南九州の「隼人」と同様に、さらにその南方の海上諸島に住む人々は南島人などと呼称された。7世紀末から8世紀初頭にかけて、文武天皇や元正天皇の時代に南島への遣使が相次いで派遣され、奄美(あまみ)、夜久(やく)、度感(とから)、信覚(しがき)などの島々が律令国家の支配体制に緩やかに組み込まれていった。
大宰府による管理と交通路としての意義
南島に対する統制は、九州を管轄する大宰府が実務を担った。南島の島民は大宰府を通じて朝廷へ朝貢し、引き換えに位階や禄(褒美の品物)を授かることで関係を維持した。また、8世紀に入り新羅との関係が悪化すると、遣唐使のルートは従来の朝鮮半島沿いを通る「北路」から、五島列島や南島の島々を経由して東シナ海を横断する「南島路(なんとうじ)」へとシフトした。これにより、南島は律令国家の南の境界線としてだけでなく、対外交渉の重要な中継地としての役割も担うこととなった。