季禄 (きろく)
【概説】
律令制下の日本において、京官(都の役人)に対してその位階に応じて年2回、春と秋に支給された現物給与。官人の生活を支え、国家の官僚機構を維持するための基盤となった重要制度である。
律令官人の生活を支えた「ボーナス」の実態
季禄は、毎年2月(春禄)と8月(秋禄)の2回、大蔵省から官人に支給された。支給の基準は、官職ではなく個人の実力や血統に対応する位階(官位)に基づいて細かく定められており、支給品は絁(あしぎぬ)、糸、布、鍬(くわ)といった、当時の社会において実質的な貨幣として機能していた現物であった。これらは地方から中央へと送られた調や庸が財源となっていた。
律令制下の給与制度には、季禄のほかにも四位・五位の貴族に年1回支給される「位禄(いろく)」や、特定の官職に対して与えられる「職分田(しきぶんでん)」などがあった。その中でも季禄は、五位以上の貴族(通称:通貴)だけでなく、六位以下の一般官人(通常官人)にとっても支給されるものであり、彼らの生計を維持するための最も基本的な経済的命綱であった。
天武朝における官人支配と「禄制」の成立
季禄の制度的起源は、大化の改新(645年)以降の公地公民制への移行期に遡る。それまでの氏姓制度下では、豪族たちは自己の私地私民(田荘・部民)から直接利益を得ていたが、国家による中央集権化に伴い、官人(役人)は国家から給与を得て生活する官僚へと転換する必要が生じた。こうした流れの中で、682年(天武天皇11年)に天武天皇が「初めて禄法(禄制)を定む」として給与基準を法制化したのが直接の始まりである。
この天武朝の禄制が、のちの大宝律令(701年)および養老律令(718年)の「禄令」において、より緻密な体系へと発展した。律令法においては単に位階が高いだけでなく、一定以上の出勤日数(原則として年間120日以上の出勤)を満たしていることが支給の条件とされ、官人の勤務意欲を向上させ、官僚制を円滑に機能させるためのインセンティブとしても機能していた。
地方財政の破綻と季禄の終焉
季禄は地方からの調・庸という物資の貢納に完全に依存していた。しかし、平安時代中期(9世紀〜10世紀)に入ると、戸籍の形骸化や偽籍の横行によって律令的な税制が崩壊し、地方からの物資の未納・滞納が常態化する。これにより、大蔵省の倉庫は枯渇し、官人に支給すべき季禄の財源が失われる事態(禄不給)に陥った。
政府は支給額を減額(半給など)したり、支給の引き延ばしを重ねたりして対応したが、官人たちの困窮は防げなかった。生活できなくなった官人たちは、受領(地方官)となって地方で富を蓄えることを望むようになり、中央の事務系官人は独自の荘園経営や特定の利権に頼るようになっていった。季禄の機能不全と形骸化は、律令国家体制そのものの解体と、中世的な領主社会へと移行していく過程を象徴する出来事であった。