大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳) (だいせんりょうこふん(にんとくてんのうりょうこふん)
【概説】
大阪府堺市に位置する、日本最大かつ世界最大級の面積を誇る巨大な前方後円墳。5世紀中頃の築造とされ、宮内庁によって第16代仁徳天皇の陵墓に治定されている。当時のヤマト王権の強大な権力と動員力を示す象徴的な遺跡である。
世界最大級の規模と構造
大仙陵古墳は、墳丘長約486メートル、後円部径約249メートル、前方部幅約307メートルを測る日本最大の前方後円墳である。エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦始皇帝陵と並び、世界三大墳墓の一つに数えられることもある。墳丘は三重の周濠(しゅうごう)に囲まれており、外側の濠を含めた全長は約840メートルにも及ぶ。
墳丘は三段築成で構成され、表面にはびっしりと葺石(ふきいし)が敷き詰められていた。また、円筒埴輪や形象埴輪が2万本以上並べられていたと推測されている。これほどの巨大なモニュメントを築き上げるためには、長期間にわたる天文学的な労働力と高度な土木技術が必要であり、古墳時代のヤマト王権が絶大な権力を握っていたことを物語っている。
「仁徳天皇陵」という呼称と被葬者問題
現在、本古墳は宮内庁によって第16代仁徳天皇の陵墓(百舌鳥耳原中陵:もずのみみはらのなかのみささぎ)として治定(じじょう)され、厳重に管理されている。しかし、近代以降の歴史学および考古学の研究によれば、古墳の形状や出土品(須恵器や円筒埴輪の形式など)から、築造年代は5世紀中頃と推定されている。
これは文献史料にみえる仁徳天皇の活動時期と必ずしも一致しないという指摘があり、被葬者を特定の天皇に断定することは極めて困難である。そのため、学術的には所在地周辺の地名をとって「大仙陵古墳」あるいは「大山古墳」と呼称することが一般的となっている。実際の被葬者については諸説あるが、『宋書』倭国伝に登場する「倭の五王」のうちの「讃」や「珍」の墓ではないかとする説も有力視されている。
王権の河内進出と対外的な誇示
大仙陵古墳が築造された5世紀は、ヤマト王権の巨大王墓の所在地が、それまでの奈良盆地(大和)から大阪平野(河内・和泉)へと移動した時期にあたる。堺市の百舌鳥古墳群や、羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群には、大仙陵古墳や誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)といった巨大な前方後円墳が集中して築かれている。
この王墓群の移動は、当時の王権が瀬戸内海を通じた水上交通を重視し、朝鮮半島や中国大陸との外交・交易に積極的に乗り出していたことを示している。大仙陵古墳が大阪湾から見えやすい海岸段丘上に築かれたのは、海路から訪れる大陸や半島の使節団に対し、ヤマト王権の強大な国力を視覚的に誇示する政治的意図があったと考えられている。
世界遺産登録と学術調査の現状
2019年、大仙陵古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」は、ユネスコの世界文化遺産に登録された。古代日本の国家形成過程における特異な葬送文化と、高度な土木技術が世界的に評価された結果である。
一方で、本古墳は皇室の祖先を祀る「陵墓」であるという性質上、原則として研究者であっても内部への立ち入りや本格的な発掘調査は制限されている。近年では、周濠の護岸工事などに伴う宮内庁と地元自治体による事前調査によって、墳丘の一部から埴輪列や石敷きが確認されるなど、少しずつ新たな知見が得られつつあるものの、埋葬施設の構造や副葬品の全容など、未解明な謎は未だ多く残されている。