古市古墳群 (ふるいちこふんぐん)
【概説】
大阪府羽曳野市と藤井寺市にまたがる、古代日本を代表する巨大古墳群。日本第2位の規模を誇る誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)をはじめ、多数の巨大前方後円墳が集中している。百舌鳥古墳群(堺市)とともに、5世紀を中心とするヤマト王権の政治的権力や、当時の国際関係を象徴する遺跡群群である。
巨大古墳の成立と「河内」への進出
4世紀後半から5世紀にかけて、畿内における巨大古墳の造営地は、それまでの大和盆地(佐紀古墳群など)から、大阪平野の百舌鳥・古市地域へと移動した。古市古墳群はその東側に位置し、東西約4km、南北約4kmの範囲に約130基の古墳が築かれた。この造営地の移動は、ヤマト王権の中枢が河内地方へと移行したことを示唆しており、歴史学・考古学においては「河内王朝(河内政権)」の興隆を示すものとして重視されてきた。
特に古市古墳群の代表格である誉田御廟山古墳(墳丘長約425メートル)は、百舌鳥古墳群の大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)に次ぐ規模を持ち、これら巨大古墳の築造には、王権が掌握していた圧倒的な労働力と高度な土木技術が不可欠であった。瀬戸内海から大阪湾を経て大和へと至る交通の要衝にこれらを配置することで、大陸や朝鮮半島からの使者に対して王権の偉大さを視覚的に誇示する狙いがあったと考えられている。
東アジア情勢と「倭の五王」の時代
古市古墳群が最盛期を迎えた5世紀は、中国の歴史書『宋書』倭国伝に記された「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)が活躍した時代と重なる。当時の東アジアは、高句麗の南下政策に対抗するため、朝鮮半島南部(百済や加羅)の利権を巡る緊張状態にあった。倭王たちは中国の南朝へ朝貢を重ね、冊封(爵号の獲得)を得ることで、朝鮮半島における外交的・軍事的優位性を確保しようとした。
このような国際緊張の中で、古市古墳群の古墳からは、鉄製の武器や武具(甲冑)、渡来系の技術で作られた陶質土器(須恵器)などが数多く出土している。これは、ヤマト王権が渡来人の技術集団を取り込み、軍事力や生産力を急速に高めて国家形成を推し進めていった歴史的背景を物語っている。
百舌鳥古墳群との関係と世界遺産への登録
古市古墳群は、西側に位置する百舌鳥古墳群とほぼ同時期に並行して築造された。この2つの巨大古墳群の関係性については、王権内の異なる有力な2系統の勢力が競合・交代しながら首長墓を造営したとする説や、一つの王権が時期によって役割を変えて使い分けたとする説など、現在も活発な議論が続けられている。
これら古代日本の国家形成期における政治・社会構造、および優れた土木技術と芸術性を今に伝える文化遺産として、2019年には「百舌鳥・古市古墳群―古代日本の墳墓群―」としてユネスコの世界文化遺産に登録され、国際的にもその高い価値が広く認められることとなった。