弓月君 (ゆづきのきみ)
【概説】
古墳時代に百済から日本へと渡来し、古代の有力氏族である秦氏(はたうじ)の祖となったとされる伝説的人物。応神天皇の時代に多くの民を率いて帰化し、日本に養蚕や機織りなどの先進的な技術をもたらしたとされる。
『日本書紀』に描かれる弓月君の渡来劇
『日本書紀』の応神天皇14年条によると、弓月君は百済から百二十県(あがた)の人民を率いて日本に帰化しようとしたが、新羅の妨害に遭い、加羅(から)の地に留め置かれたとされる。この事態に対しヤマト政権は、有力豪族である葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を朝鮮半島に派遣して弓月君とその民を召し出そうとしたが、襲津彦自身も加羅に留まり、3年経っても帰国しなかった。
同16年、天皇は平群木菟(へぐりのづく)らが率いる兵力を派遣して新羅を牽制し、ようやく弓月君と多くの民、そして葛城襲津彦をヤマトへと連れ帰ることに成功したという。この伝承は、5世紀前半におけるヤマト政権と朝鮮半島諸国(百済・新羅・加羅)との間の複雑な外交関係や、先進的な技術・人材の獲得をめぐる対立の実態を反映していると考えられている。
「秦の始皇帝」後裔説と系譜の謎
弓月君を祖とする秦氏は、後世に中国の秦の始皇帝の末裔を自称するようになる。これは東アジアの覇権国家であった秦の権威を借りることで、ヤマト政権内における氏族の格を高めようとした古代の系譜創造(仮冒)の一環と考えられている。
近年の歴史学においては、弓月君の「弓月(ゆづき)」という名について、百済国内の地名や、朝鮮半島の「弓呑(きゅうどん)」などの音に由来する説、あるいは中央アジアの「弓月(クンジュ)」との関連を想定する説など、多様なアプローチから研究が進められている。いずれにせよ、彼らが朝鮮半島南部を経由して渡来した集団であり、ヤマト政権にとって不可欠な技術系渡来人の代表格であったことは間違いない。
ヤマト政権への技術的貢献と秦氏の台頭
弓月君が率いてきた渡来民は、ヤマト政権の支配下で各地に分散して居住させられ、養蚕や機織り、さらには土木・治水・製鉄といった最先端の技術を日本列島に定着させた。弓月君の孫とされる酒公(さけのきみ)の時代には、各地の秦氏の部民を取りまとめて優れた絹織物を朝廷に貢納し、その絹が山のように積まれたことから「禹豆麻佐(うずまさ=太秦)」の姓を賜ったと伝えられる。
秦氏は後に山背国葛野(現在の京都市右京区太秦付近)を本拠地とし、葛野大堰(かどのおおゐ)の建設をはじめとする大規模な地域開発を行い、後の平安京遷都を経済的・技術的に支える大豪族へと発展していく。弓月君の渡来伝承は、日本の古代国家形成期において、渡来人が果たした計り知れない文化的・経済的役割を象徴する歴史的事象として極めて重要である。