国譲り神話
【概説】
大国主神が、天照大御神の遣わした使者に対し、地上世界の支配権を天津神に譲ることを承諾したという日本神話の一節。8世紀初頭に編纂された『古事記』や『日本書紀』に記されている。ヤマト王権による日本列島支配の正統性を基礎づける、政治的・宗教的に極めて重要な説話である。
「国譲り」の展開と平和的妥協の条件
高天原の主宰神である天照大御神(アマテラスオオミカミ)は、地上の葦原中国(あしはらのなかつくに)は自らの子孫が治めるべき国であるとし、出雲の地で国作りを完成させていた大国主神(オオクニヌシノカミ)に対して使者を派遣した。度重なる交渉の失敗の後、最終的に武勇に優れた武雷神(タケミカヅチノカミ)が出雲の稲佐の浜に降り立ち、大国主神に国を譲るよう迫った。
大国主神の子である事代主神(コトシロヌシノカミ)はすぐに恭順を示したが、もう一人の子である建御名方神(タケミナカタノカミ)は力比べを挑んで敗退し、信濃国の諏訪へと逃亡した。大国主神は最終的に国土の譲渡(国譲り)を承諾するが、その代償として、天孫が住む宮殿に匹敵する壮大な神殿の造営を要求した。これが現在の出雲大社の起源とされ、大国主神は「現実世界の政治」を天孫に譲り、自らは「目に見えない神事(精神世界)」を司る神として隠退することとなった。
古墳時代の出雲勢力とヤマト王権の拡大
国譲り神話は、古墳時代におけるヤマト王権(倭王権)の拡大過程と、地方豪族の服属という歴史的実態を反映していると考えられている。当時の島根県出雲地方は、巨大な四隅突出型墳丘墓の造営や、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡から出土した大量の青銅器(銅剣・銅鐸)が示すように、ヤマト王権とは異なる独自の強力な政治・文化圏を形成していた。
ヤマト王権が全国的な統合を進める中で、この出雲勢力をいかに取り込むかが大きな課題であった。神話において、出雲が武力によって一方的に征服されるのではなく、「壮大な宮殿の造営」という祭祀の特権を保証されることで平和的に王権へ服属したという形式をとっている点は重要である。これは、ヤマト王権が出雲の政治的支配権(政事)を手中に収める一方で、その強力な祭祀能力や独自の伝統(神事)を尊重し、王権の序列の中に包摂していった政治的妥協の歴史的プロセスを象徴している。