屯倉

重要度
★★★

屯倉 (みやけ)

5世紀〜7世紀中葉

【概説】
古墳時代にヤマト政権が全国各地に設けた、大王(皇室)の直轄地。そこからの収穫物を納める倉を含めた経営拠点全体を指し、王権の重要な経済的基盤となった。大化の改新による公地公民制の成立に伴い廃止された。

屯倉の成立と基本的な役割

屯倉は、主に5世紀から6世紀にかけてヤマト政権(大王)が全国各地に設置した直轄領である。「屯(み)」は敬語、「倉(やけ)」は稲穀を納める高床倉庫を意味しており、本来は大王の穀物を納める倉そのものを指した。それが転じて、倉を擁する耕作地やその経営拠点全体を意味するようになった。

屯倉における労働力として編成されたのが、田部(たべ)と呼ばれる直轄民である。また、大王の宮殿の警備や生活物資の供給を担った名代・子代(なしろ・こしろ)などの部民(べみん)制と並び、屯倉はヤマト政権の財政と権力基盤を支える両輪として機能した。

継体・欽明朝における設置の急増と磐井の乱

屯倉の設置は5世紀頃から見られるが、歴史的に特に重要なのは6世紀前葉から中葉にかけての継体・欽明朝における急増である。この時期、朝鮮半島情勢の緊張(新羅の台頭など)を背景に、ヤマト政権は軍事的・経済的基盤の強化を迫られていた。

その象徴的な出来事が、527年に勃発した磐井の乱である。筑紫国造の磐井がヤマト政権に対して反乱を起こし鎮圧されると、戦後処理として筑紫に糟屋屯倉(かすやのみやけ)などが設置された。政権は反乱を起こした地方豪族の土地を没収したり、服従の証として土地を献上させたりすることで、屯倉を各地に楔(くさび)のように打ち込んでいった。これは単なる経済的収奪にとどまらず、地方の有力豪族の勢力を削減し、王権の支配を地方へ直接的に及ぼすための高度な政治的戦略であった。

屯倉の経営と地方支配体制

地方に設置された屯倉の経営は、主に現地の有力豪族である国造(くにのみやつこ)が管理を任されることが多かった。一方で、中央からは屯倉の監督官として県主(あがたぬし)や、稲穀の出納・帳簿管理を行うための中央官僚的性格を持つ伴造(とものみやつこ)が派遣された。

このように、ヤマト政権は在地首長の権威を利用しつつも、中央からの統制を効かせるという二重構造で屯倉を維持した。屯倉から得られた莫大な収穫物は、大王家の私的財産として蓄積されただけでなく、外交使節の饗応や軍需物資、さらには配下の豪族への賜与など、王権の権威を示すための「再分配」の原資としても最大限に活用された。

屯倉の終焉と歴史的意義

7世紀に入り、東アジア情勢がさらなる激動(唐の建国や朝鮮半島の動乱)を迎えると、ヤマト政権はより強固な中央集権国家への脱皮を図った。その集大成が645年の乙巳の変に続く大化の改新(646年の改新の詔)である。

この改革により、王室の私地私民であった屯倉・名代・子代や、豪族の私地私民であった田荘(たどころ)・部曲(かきべ)はすべて廃止され、国家がすべての土地と人民を直接支配する公地公民制へと移行した。これにより屯倉という制度そのものは消滅したが、屯倉を通じて蓄積された地方支配のノウハウや交通路・情報網の整備は、のちの律令国家における国郡制(評制)の基盤として決定的な役割を果たしたのである。

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