部曲

重要度
★★★

部曲 (かきべ)

3世紀後半〜646年

【概説】
大和政権(ヤマト王権)の氏姓制度において、有力な豪族(氏)が私有していた領民(私有民)。豪族の私有地である田荘(たどころ)とともに彼らの経済的・軍事的基盤を支えたが、大化の改新における公地公民制の導入に伴い廃止された。

大和政権下の社会構造における位置づけ

古墳時代から飛鳥時代にかけての大和政権(ヤマト王権)では、身分や階層が複雑に分化する氏姓制度が展開されていた。当時の民衆は大きく分けて、王権に直属する民(名代・子代や屯倉の耕作民、特殊技能を持つ品部など)と、各豪族が私的に領有する民が存在した。この後者の私有民が部曲(かきべ)である。

「かきべ」の「かき」とは、元来「垣根」や「囲い」を意味する言葉であり、特定の豪族(氏)に囲い込まれ、隷属・奉仕する集団であったことを示している。彼らは氏上(うじのかみ)に率いられた氏人(うじびと)の下に位置づけられ、主に農業生産や各種の雑役に従事した。

田荘(たどころ)との関係と豪族の権力基盤

部曲は、豪族の私有地である田荘(たどころ)の耕作を主な任務としていた。ヤマト王権が日本列島各地の豪族を服属させていく過程で、豪族たちがもともと持っていた土地と人民に対する支配権を王権が追認した形、あるいは王権に対する奉仕の代償(恩賞)として新たに与えられた形で成立したと考えられている。

部曲と田荘の存在は、蘇我氏や物部氏、大伴氏といった有力豪族の強大な経済力、ひいては軍事力の源泉となった。しかし、国家(王権)の直接的な統制が及ばない私的な土地と人民が広範囲に存在することは、後の中央集権化を目指す国家形成において、大きな障害となっていった。

中国史における「部曲(ぶきょく)」との違い

「部曲」という漢字表記は、もともと中国の制度から借用されたものである。中国史(主に漢代から魏晋南北朝時代)における「部曲(ぶきょく)」は、将軍に直属する私兵集団や、後には有力者に隷属する半自由民的な農民(賎民の一種)を指す言葉であった。

日本における「かきべ」も、特定の有力者に隷属するという点では類似している。しかし、日本の部曲は律令制以前の氏姓制度という独自の社会構造の中で形成されたものであり、実態としての性格や身分的位置づけは中国の制度と完全に一致するわけではない。のちに『日本書紀』などの国史編纂者が、日本固有の古い「かきべ」という和語に対し、類似した性格を持つ中国の古典語である「部曲」という漢字を当てたと考えられている。

大化の改新による廃止と公地公民制への転換

7世紀半ば、唐や新羅の動向など東アジアの国際情勢が緊迫化する中、日本でも国家の総力を結集できる強力な中央集権国家の建設が急務となった。645年の乙巳の変を経て、翌646年(大化2年)に出されたとされる「改新の詔」において、部曲の運命は大きく変わる。

改新の詔の第一条では、「昔の天皇等所立 子代の民、処処の屯倉、及び別れる臣・連・伴造・国造・村首の所有る部曲の民、処処の田荘を罷めよ」と宣言された。これにより、天皇家の私有地(屯倉)・私有民(名代・子代)とともに、豪族の部曲と田荘は建前上すべて廃止されることとなったのである。

この政策は公地公民制と呼ばれ、すべての土地と人民を国家(天皇)の直接支配下に置く律令国家体制への歴史的な大転換点となった。部曲の廃止は、単なる経済制度の変革にとどまらず、豪族の独立的基盤を解体し、天皇を中心とする新たな国家体制を築くための最重要の布石であったといえる。

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