田荘 (たどころ)
【概説】
古墳時代から飛鳥時代にかけて、ヤマト王権下の有力豪族(氏)が所有・支配した私有地。労働力である私有民の部曲(かきべ)とともに、氏姓制度を支える豪族たちの強固な経済的基盤として機能した。646年の「改新の詔」によって公地公民の原則が打ち出されるまで存続した。
ヤマト王権下の私的経済基盤
古墳時代の日本列島において形成されたヤマト王権は、大王(後の天皇)を頂点としつつも、実態は畿内を中心とする有力豪族たちの連合政権的な性格を強く帯びていた。この王権を身分秩序として編成したものが氏姓制度(しせいせいど)であるが、各豪族(氏)の自立性と権力を裏付けていたのが、私有地である田荘(たどころ)の存在である。
豪族たちは王権における職務(政)を世襲で担う一方で、地方に広大な田荘を領有し、そこから得られる農産物や富を蓄積することで自らの勢力を維持・拡大していった。特に葛城氏、物部氏、蘇我氏といった中央の大豪族は、畿内のみならず各地方にも複数の田荘を所有し、絶大な権勢を誇っていた。
私有民である部曲(かきべ)との不可分な関係
田荘の経営において、土地そのものと同じく重要であったのが労働力である。豪族たちは田荘を耕作・維持するために、部曲(かきべ)と呼ばれる私有民や、奴婢(ぬひ/ヤツコ)を使役した。歴史学上、豪族の権力基盤を表現する際には「田荘・部曲」とセットで語られることが多い。
部曲は豪族に隷属して田荘での農業労働や手工業生産に従事し、収穫物の一部を貢納した。豪族はこれら私有地と私有民を一体として私的に支配(領有)することで、王権に対する軍事力や経済的奉仕を果たす能力を保っていたのである。
大王家の直轄地である屯倉(みやけ)との対比
田荘が豪族の私有地であるのに対し、大王家(ヤマト王権)の直轄地として設置されたのが屯倉(みやけ)である。5世紀から6世紀にかけて、大王家と有力豪族は互いに勢力を拡大すべく、日本各地で土地と人民の獲得競争を繰り広げた。
6世紀の継体天皇や欽明天皇の時代に入ると、大王家は地方の反乱(磐井の乱など)の鎮圧や新羅への対抗を名目に、各地の豪族から土地を割譲させて屯倉を次々と設置し、王権の経済基盤を強化していった。豪族たちもこれに対抗するように自らの田荘の開発を進めたが、のちに蘇我氏のように王権と結びついて屯倉の管理を掌握しつつ、自身の田荘も極大化させることで台頭する氏族も現れた。
大化の改新による廃止と律令国家への道
7世紀中頃に入ると、東アジアの国際情勢(唐の建国や高句麗・百済の動乱)が緊迫化し、日本も強力な中央集権国家を建設する必要に迫られた。その最大の障壁となっていたのが、豪族たちによる土地・人民の私的支配(田荘・部曲)であった。
645年の乙巳の変で蘇我氏本宗家が滅亡した翌年、646年(大化2年)に新政権は改新の詔(かいしんのみことのり)を発布した。その第1条において、「昔の天皇等が立てた子代の民と処々の屯倉、および臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と処々の田荘を罷(や)む」と宣言された。つまり、大王家の直轄地(屯倉)も豪族の私有地(田荘)もすべて廃止し、国家(天皇)が直接に土地と人民を支配する公地公民制への移行が打ち出されたのである。
この田荘の廃止宣言は、ヤマト王権の豪族連合的な体制を終焉させ、律令に基づく天皇中心の中央集権国家(律令国家)を形成するための極めて重要な歴史的画期となった。