閔妃 (みんぴ / ミンビ)
【概説】
李氏朝鮮の第26代国王・高宗の妃(のちに明成皇后と追号)。義父である興宣大院君と激しい権力闘争を繰り広げて政権を掌握し、一族(閔氏)を重用して国政を動かした。東アジアの国際関係が激動する中、事大主義に基づく親清政策から親露政策へと外交路線を転換して日本の進出に対抗したが、1895年に日本公使らの主導による暗殺事件(乙未事変)で命を落とした。
大院君との権力闘争と政権掌握
閔妃は、1866年に16歳で朝鮮国王・高宗の正妃となった。当時の朝鮮の全権は、高宗の実父であり摂政を務める興宣大院君(こうせんだいいんくん)が握っていた。大院君は強固な排外主義・鎖国政策(攘夷)を推し進めていたが、成長した高宗の親政を望む勢力や、開国を主張する勢力が次第に台頭し始めた。
閔妃は自らの一族である閔氏(びんし)を宮廷の要職に配置して勢力を伸ばし、1873年についに大院君を失脚させることに成功した。政権を掌握した閔氏政権は、大院君の鎖国政策を転換し、1876年に日本との間で日朝修好条規(江華条約)を締結して朝鮮を開国へと導いた。
激動の外交路線:親清から親露へ
しかし、開国後の朝鮮は列強の思惑が交錯する舞台となり、国内政局も極めて不安定であった。1882年に旧式軍隊が反乱を起こした壬午軍乱(じんごぐんらん)では、一時的に大院君が復権して閔妃は逃亡を余儀なくされたが、清国の軍事介入を要請して反乱を鎮圧し、政権を奪還した。これを機に閔氏政権は清への依存を強める(親清事大主義)。
続く1884年、日本の支援を受けた急進的な開化派(独立党)の金玉均らがクーデターを起こした甲申事変(こうしんじへん)においても、袁世凱率いる清国軍の力でこれを武力鎮圧し、日本および親日派勢力を徹底的に排除した。
ところが、1894年から翌年にかけての日清戦争において、頼みの綱であった清が日本に敗北すると、閔妃はすぐさま外交方針を転換した。南下政策を進めるロシア帝国に接近し(親露政策)、三国干渉などで国際的な影響力を見せつけたロシアの後盾を得ることで、朝鮮半島における日本の覇権拡大を牽制しようと図ったのである。
乙未事変(閔妃暗殺事件)とその影響
親露・反日的な姿勢を強める閔妃と閔氏政権に対し、朝鮮の保護国化を推し進めたい日本側は強い危機感と焦燥感を抱いた。1895年(明治28年)10月、日本の特命全権公使・三浦梧楼(みうらごろう)らの主謀のもと、日本の軍人や壮士、さらには対立関係にあった大院君派の朝鮮人部隊などが王宮(景福宮)に乱入し、閔妃を暗殺するという前代未聞の事件が起きた。これを乙未事変(いつびじへん)と呼ぶ。
一国の王妃が外国公使の主導により暗殺されたこの事件は、国際社会から激しい非難を浴びた。また朝鮮国内においても、日本に対する民衆の怒りが爆発し、抗日武装闘争である義兵闘争(初期義兵)が各地で激化する決定的な原因となった。権力闘争と列強の介入に翻弄された閔妃の生涯とその悲劇的な最期は、近代日朝関係史における最も深刻な暗部の一つとして歴史に刻まれている。