閔妃殺害事件(乙未事変)

高校日本史的重要度
★★

【参考リンク】

閔妃殺害事件(乙未事変) (みんぴさつがいじけん/いつみ(いつび)じへん)

1895年

【概説】
1895年(明治28年)、日清戦争後の三国干渉によって朝鮮半島でロシアの勢力が拡大する中、日本の特命全権公使・三浦梧楼らが主導して朝鮮の王宮に乱入し、国王・高宗の妃である閔妃を暗殺した事件。朝鮮の干支から「乙未事変(いつみじへん)」とも呼ばれる。日本の影響力低下を武力で巻き返そうとした凶行であったが、かえって朝鮮民衆の激しい抗日感情を呼び起こし、東アジアの国際関係を一層複雑化させた。

日清戦争後の三国干渉と親露派の台頭

1894年から翌年にかけての日清戦争に勝利した日本は、朝鮮における清国の影響力を排除し、親日派政権を通じて朝鮮の内政改革(甲午改革)を推し進めようとしていた。しかし、1895年4月に日本がロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉に屈し、遼東半島を清に返還すると、朝鮮国内における日本の威信は大きく揺らいだ。

この状況を巧みに利用したのが、国王・高宗の妃であり、宮廷内で強大な権力を持っていた閔妃(みんぴ)であった。彼女はそれまでの親清路線から、三国干渉で存在感を示したロシアへと接近する親露政策に転換し、宮廷内の親日派を次々と追放した。その結果、朝鮮における日本の政治的・経済的影響力は急速に後退しつつあった。

三浦梧楼の赴任と王宮乱入の決行

この危機的状況を打開するため、新たに日本の特命全権公使として朝鮮に赴任したのが、元陸軍中将の三浦梧楼(みうらごろう)であった。三浦は外交交渉による事態の収拾を諦め、武力によって閔妃を排除し、再び親日政権を樹立するという過激なクーデター計画を立案した。

1895年10月8日未明、三浦の指示を受けた日本軍の守備隊や警察官、さらには大陸浪人らが、閔妃と長年対立していた興宣大院君(こうせんだいいんくん)を擁して王宮である景福宮(けいふくきゅう)に乱入した。彼らは抵抗する朝鮮の侍衛隊を打ち破って奥宮まで押し入り、閔妃を惨殺した上で、その遺体に火を放って証拠隠滅を図った。これが閔妃殺害事件(乙未事変)である。

露館播遷と抗日義兵闘争の激化

一国の王妃が外国の公使や軍人によって暗殺されるという前代未聞の蛮行は、国際社会から激しい非難を浴びた。日本政府は三浦らを本国に召還して広島の裁判所で裁こうとしたが、証拠不十分を理由に全員が免訴・釈放されたため、さらなる国際的な不信を招くこととなった。

朝鮮国内では、この事件に対する民衆の怒りが爆発し、儒生らを中心に抗日武装闘争である義兵闘争(初期義兵・乙未義兵)が全国各地で激発した。さらに、身の危険を感じた国王・高宗は、翌1896年に突如としてロシア公使館に逃げ込むという露館播遷(ろかんはんせん)を引き起こした。日本が武力で影響力を回復しようとした目論見は完全に裏目に出、結果として朝鮮半島におけるロシアの権益拡大を決定づけることとなり、やがて両国の対立は日露戦争へと発展していくこととなる。

最終更新:
2026年9月12日 @ 23:09

日本史一問一答(ランダム)

Q. 幼少期に岩倉使節団とともにアメリカに留学し、のちに女性の高等教育機関である「女子英学塾」を創設した教育者は誰か?
Q. ヤマト政権の三蔵のうち、神事や祭祀に用いる品や神聖な宝物を収めていたとされる蔵は何か?
Q. 明治民法で法的に確立された、戸主(家長)の強い権限のもとで家族を統制し、長男が家督を相続する日本の伝統的な家族制度を何というか?