大院君 (だいいんくん)
【概説】
朝鮮第26代国王・高宗の実父である李昰応(りかおう / イ・ハウン)の称号であり、19世紀後半の朝鮮政治において強大な権力を握った人物。強硬な鎖国・攘夷政策を推進して西洋列強や日本の接近を拒絶し、開化派の閔氏(びんし)政権と激しい権力闘争を繰り広げた。壬午軍乱や日清戦争など、近代東アジアの国際関係を大きく揺るがした歴史的事件の中心に常に存在し続けた保守派の巨頭である。
国王の実父としての権力掌握と内政改革
「大院君」とは本来、国王の実父であって自らは王位に就いたことのない人物に与えられる称号であるが、歴史用語としては一般に高宗の父である興宣大院君(こうせんだいいんくん)を指す。1863年、先代の哲宗が後継者を残さずに崩御した際、李昰応の次男がわずか11歳で高宗として即位した。これにより大院君は「生きている国王の父」として摂政の座に就き、実質的な最高権力者となった。
大院君は、長年にわたり国政を私物化していた勢道政治(特定の外戚による権力独占)を打破し、王権の強化と国家財政の再建を目指した。書院(儒学者の拠点)の整理や税制の改革など、一定の成果を挙げた強力な内政改革は、民衆からある程度の支持を得ることに成功した。
強硬な鎖国攘夷路線と閔氏一族との対立
外交面において、大院君は徹底した鎖国・攘夷政策を貫いた。当時、東アジアには西洋列強の帝国主義的な圧力が迫っていたが、大院君はキリスト教(天主教)を激しく弾圧し、通商を求めて接近してきたフランス軍やアメリカ軍の武力挑発(丙寅洋擾、辛未洋擾)を撃退した。また、明治維新を経て近代的な国交樹立を求めてきた日本に対しても、従来の華夷秩序に反するとしてその国書を拒絶し、これが日本国内における征韓論の台頭を招く一因となった。
しかし、1873年に高宗が成人すると、事態は一変する。高宗の妃である閔妃(みんぴ)を中心とする閔氏一族が実権を握り、大院君は政界から追放されたのである。大院君の鎖国路線を覆した閔氏政権は、1876年に日本の武力威圧に屈して日朝修好条規(江華島条約)を結び、開国と近代化(開化)へと舵を切った。これにより、排外的な大院君の勢力と、開化を進める閔氏政権との間に血みどろの権力闘争が勃発することとなる。
壬午軍乱における復権と数奇な末路
開国後、新式軍隊の優遇や物価高騰に苦しむ旧式軍隊や都市民衆の不満は爆発寸前となっていた。1882年、ついに彼らが暴動を起こし、日本公使館などを襲撃する壬午軍乱が勃発する。この時、反乱軍の支持を受けて大院君は一時的に政権を奪還し、開化政策の白紙撤回を宣言した。
しかし、朝鮮における自国の優位を保ちたい清国がすかさず軍隊を派遣し、反乱を鎮圧。大院君は清国軍によって拉致され、天津へと連行・幽閉されてしまった。その後、約3年の幽閉を経て朝鮮に帰国するが、閔氏政権の監視下に置かれ不遇の日々を送った。
大院君の政治的利用価値はこれにとどまらなかった。1894年、甲午農民戦争(東学党の乱)を契機として日清戦争が勃発すると、日本軍は漢城(ソウル)の王宮を占領し、親日的な政権を樹立するために再び大院君を担ぎ出した。しかし、徹底した排外主義者である大院君が日本の傀儡(かいらい)になるはずもなく、裏で清国や農民軍と通じて日本を排除しようと画策したため、短期間で再び失脚させられた。時代の波に翻弄され、あるいは自ら波を起こしながら、大院君は1898年に78歳でその生涯を閉じたのである。