壬
壬午軍乱 (じんごぐんらん)
【概説】
1882年(明治15年)、朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)において、旧式軍隊の兵士や都市民衆が起こした大規模な反乱。開国後に急激な近代化政策を推し進めた閔氏政権や、その後ろ盾となっていた日本への不満が爆発したものであり、日本公使館も襲撃された。この事件を機に清国が朝鮮への内政干渉を強め、後の日清戦争へと繋がる東アジア国際関係の重大な転換点となった。
開国後の朝鮮における近代化政策と旧式軍隊の不満
1876年の日朝修好条規(江華島条約)によって開国を余儀なくされた朝鮮では、国王・高宗の妃である閔妃(みんぴ)を中心とする閔氏政権が実権を握り、日本の支援を受けながら急激な開化(近代化)政策を進めていた。その一環として、日本人教官(堀本礼造)を招聘して西洋式の新式軍隊である別技軍(べつぎぐん)が創設された。
しかし、新式軍隊が優遇される一方で、従来の旧式軍隊は激しく冷遇された。彼らへの給料である米の支給は1年以上も遅配が続き、ようやく支給された米にも砂や糠が大量に混ざっているという有様であった。さらに、開国に伴う日本への米穀輸出の急増は、国内の物価高騰を招き、都市民衆の生活をも激しく圧迫していた。こうした待遇格差に対する旧式軍人の怒りと、民衆の生活苦、そして外勢に対する排外感情が結びつき、反乱の火種となっていった。
軍乱の勃発と大院君の復権、日本公使館の襲撃
1882年(干支で壬午の年)7月、ついに怒りを爆発させた旧式軍人は暴動を起こし、これに不満を募らせていた民衆も合流して大規模な反乱へと発展した。暴徒は政府高官の邸宅を次々と襲撃・殺害するとともに、外国勢力排除の象徴として日本公使館を包囲・焼き討ちにした。日本公使の花房義質(はなぶさよしもと)らは命からがら漢城を脱出したが、日本人教官をはじめとする多数の日本人が殺害された。
さらに反乱軍は、かつて排外主義的な鎖国政策(攘夷)を行い、閔氏政権と激しく対立して失脚していた国王の父・興宣大院君(こうせんだいいんくん)を擁立した。民衆の支持を背景に、大院君は一時的に政権を奪取することに成功し、開化政策の撤回を宣言したのである。
清国の武力介入と事態の急転回
この事態の急変に対し、朝鮮における自国の宗主権(属国としての地位)を維持・強化しようと図る清国がいち早く動いた。清の北洋大臣・李鴻章の指示を受けた清国軍(約3,000人)が漢城に派遣され、反乱軍を圧倒的な武力で鎮圧したのである。さらに清国は、反乱の首謀者として大院君を拉致し、清国の天津へと連行して幽閉した。
これにより大院君の政権はわずか1ヶ月余りで崩壊し、再び閔氏政権が復活した。しかし、自力で反乱を鎮めることができず清国の軍事力に依存した閔氏政権は、以後の外交路線をかつての親日・開化路線から、清国に従属する事大主義(親清保守路線)へと大きく舵を切ることになる。清国は朝鮮に政治顧問を送り込み、強力な内政干渉を行うようになった。
済物浦条約の締結と日清対立の激化
一方、日本政府も自国民殺害の報復と居留民保護のために軍艦と部隊を派遣し、朝鮮政府に強硬な責任追及を行った。その結果、同年8月に済物浦条約(さいもっぽじょうやく)が締結され、朝鮮側からの公式な謝罪、賠償金(50万円)の支払い、そして日本公使館護衛のための日本軍の漢城駐留権が認められた。
壬午軍乱の最大の歴史的意義は、朝鮮半島を巡る日本と清国の軍事的な対立構造が決定的に明確になった点にある。この事件の結果、朝鮮の首都に日本軍と清国軍の両方が駐留するという異常事態が生じた。日本の影響力が後退し清国の覇権が強まる中、朝鮮国内での開化派(独立党)と保守派(事大党)の対立はさらに激化し、わずか2年後の甲申事変(1884年)、そして1894年の日清戦争へと至る直接的な導火線となったのである。