護国寺 (ごこくじ)
【概説】
江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が、その生母である桂昌院の願いを受けて天和元(1681)年に創建した真言宗豊山派の寺院。将軍家の祈願寺として幕府の手厚い保護を受け、元禄文化の面影を今に伝える江戸時代の代表的な仏教建造物である。
桂昌院の帰依と開山・亮賢
護国寺の建立は、第5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院の篤い信仰心と深く結びついている。八百屋の娘から将軍の母へと上り詰めた桂昌院は、知足院の僧である亮賢(りょうけん)に深く帰依していた。亮賢が綱吉の将軍就任を予言し、それが実現したことから、綱吉も亮賢を重用したとされる。綱吉は母の願いを受け入れ、幕府の薬草園であった豊島郡小日向台(現在の東京都文京区)の地を寄進し、亮賢を開山(初代住職)として護国寺を創建した。本尊には、桂昌院が私に信仰していた琥珀如意輪観音菩薩が安置された。
綱吉の文治政治と元禄建築の最高峰
徳川綱吉の治世は、武力による支配から学問や礼節、仏教を重視する文治政治への転換期であった。その一環として寺社の建立や修復が盛んに行われ、護国寺はその象徴的な存在となった。元禄10(1697)年に建立された本堂(観音堂)は、元禄期を代表する大規模な木造建築である。度重なる江戸の火災や明治の廃仏毀釈、さらには昭和の東京大空襲といった数々の危機を免れ、創建当時の姿を現在に残す極めて貴重な遺構として、国の重要文化財に指定されている。
近代における墓所としての変遷
明治維新後、幕府の庇護を失った護国寺は一時困窮したが、明治期以降は政財界の重鎮たちの墓所として新たな役割を持つこととなった。広大な境内には、内閣総理大臣を務めた大隈重信や山県有朋、公家の三条実美などの墓が建てられた。また、東側の一部は皇族専用の墓地である「豊島岡墓地」となり、江戸時代の将軍家祈願所から、近代日本の指導者層が眠る権威ある寺院へと変遷を遂げた。