蓄銭叙位令(蓄銭叙位法) (ちくせんじょいれい(ちくせんじょいほう)
【概説】
711年(和銅4年)、律令国家が貨幣の流通を促進する目的で発布した法令。
一定額の銭を蓄えて政府に納めた者に対し、その額に応じて位階(地位)を授与・昇進させる制度である。
しかし、位階を得るために銭が死蔵されるという矛盾を招き、かえって貨幣の流通を阻害する結果となった。
制定の背景:律令国家と和同開珎
7世紀末から8世紀初頭にかけて、日本の律令国家は中央集権体制を確立する過程で、独自の貨幣制度の導入を強く推進していた。708年(和銅元年)には日本初の本格的な流通貨幣とされる和同開珎が鋳造された。政府は、平城京の造営費用や官人への給与(禄)の支払いなどを円滑に行うため、銭貨を経済の基本通貨として定着させる必要があった。
しかし、当時の社会経済は依然として稲や布などを基準とする物品貨幣(物々交換)が主流であったため、金属の塊にすぎない銭貨に対する人々の信用は低く、市中ではなかなか流通しなかった。そこで政府は、納税の際の銭での代納を認めるなど、あの手この手で銭貨の普及を図った。その流通促進策の一環として711年(和銅4年)に出されたのが蓄銭叙位令である。
法令の内容と政府の意図
蓄銭叙位令は、一定額以上の銭を蓄え、それを政府に納入した者に対して、その額に応じて位階(身分)を与える、あるいは昇進させるという制度である。律令制下における位階は、官職に就くための前提であり、給付される土地や禄の額を決定する極めて重要な身分的指標であった。
政府の意図は、銭貨に「位階を獲得できる」という強力な付加価値を持たせることで、人々に銭貨を欲しがる動機を与え、結果として社会全体での銭貨の価値と信用を高めることにあった。特権階級である官人や富裕層が先を争って銭を求めるようになれば、自ずと貨幣経済が浸透していくと踏んだのである。
政策の矛盾と「死蔵」の発生
しかし、この法令は根本的な矛盾を抱えていた。「貨幣の流通を促進する」という本来の目的とは裏腹に、位階を欲する官人や豪族たちは、入手した銭を手放して市場で使うのではなく、叙位の基準額に達するまで蔵の奥深くに死蔵(蓄蔵)するようになったのである。
そのため、市中に出回って経済を回すはずの和同開珎が富裕層のもとへ吸い上げられたまま滞留し、かえって貨幣の流通が阻害されるという本末転倒の事態を引き起こした。政府はその後も、蓄銭を奨励しながら流通も促すという矛盾を抱えたまま、対象を制限するなどの方針転換を余儀なくされた。
法令の廃止と歴史的意義
蓄銭叙位令による死蔵問題は長く政府を悩ませ、最終的に平安時代初期の800年(延暦19年)、桓武天皇の時代にこの法令は廃止された。制度の目的としては失敗に終わったと言えるが、この法令は日本の貨幣史において重要な意味を持っている。
当時はまだ社会の生産力や流通経済が未成熟であり、国家が法的な強制力や身分的特権を餌にしなければ、貨幣を流通させることが困難であったという当時の経済的実態を如実に示している。また、国家が「貨幣の価値を保証する主体」として振る舞おうとし、無理にでも貨幣経済を導入しようとした象徴的な出来事として、律令期の政策を語る上で欠かせない法令である。