和同開珎

708年に唐の「開元通宝」をモデルにして鋳造され、律令国家が本格的に流通させることを目指した貨幣は何か?
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重要度
★★★★

和同開珎 (わどうかいちん/わどうかいほう)

708年

【概説】
708年(和銅元年)、武蔵国からの和銅献上を機に鋳造された、政府が公式に発行した日本初の本格的な流通貨幣。唐の「開元通宝」をモデルに作られ、初期は銀銭も発行されたが後に銅銭に一本化された。平城京造営の資金調達や、律令国家としての威信を示すために発行され、その後の皇朝十二銭の端緒となった。

和同開珎誕生の背景と和銅改元

708年(慶雲5年)、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市)から自然銅(にぎあかがね)が献上された。元明天皇はこれを吉兆として年号を「和銅」に改元し、同年に和同開珎を鋳造した。5月に銀銭、8月に銅銭が発行されている。古くは日本最古の貨幣とされてきたが、現在では7世紀後半に鋳造された富本銭や無文銀銭の存在が確認されている。しかし、これらは宗教的な呪具(厭勝銭)としての性格が強かったり、流通範囲が極めて限定的であったりしたと考えられている。そのため、国家が法的に価値を規定し、広範な流通を目的として発行した本格的な貨幣としては、和同開珎が最初と位置づけられている。

貨幣の形態と「開珎」の読み

和同開珎は、中央に四角い穴が開いた円形方孔(えんけいほうこう)の形状をしており、これは当時の超大国であった唐の標準貨幣「開元通宝」をモデルとしたものである。鋳造時期や製法の違いによって、初期の厚手で稚拙な「古和同」と、大量生産され薄手で均整のとれた「新和同」に分類される。また、「開珎」の読み方については古くから論争がある。「珎」を「珍」の略字と見て「わどうかいちん」と読む説と、「寶(宝)」の略字と見て唐の開元通宝にならい「わどうかいほう」と読む説である。現在でも学説は分かれているが、歴史用語としては両方の読みが許容されている。

平城京造営と蓄銭叙位令

政府が和同開珎を発行した最大の目的は、710年に予定されていた平城京の造営費用を捻出することであった。政府は労働者への日当(雇役)や資材の購入にこの新貨幣を支払いとして用いることで、巨大プロジェクトの財源問題の解決を図ったのである。しかし、当時の社会では稲や布を基準とする実物貨幣による交易が根強く、人々にとって金属片に過ぎない銅銭の価値は理解し難いものであった。そこで政府は、711年に蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)を発布し、蓄えた銭の額に応じて位階を与えるという強力なインセンティブを設けて流通を促進しようとした。だが、この法令は「貨幣を流通させる」という本来の目的とは裏腹に、位階を得るために銭を「退蔵」してしまうという矛盾を引き起こすこととなった。

律令国家の威信と歴史的意義

貨幣の発行は、単なる経済政策にとどまらず、独立した文明国としての威信を国内外に示すという重要な政治的意義を持っていた。当時、独自の貨幣を鋳造することは、律令国家の体裁を整える上で欠かせない要素だったのである。和同開珎の発行以降、平安時代の958年に発行された乾元大宝(けんげんたいほう)に至るまで、政府は「皇朝十二銭(本朝十二銭)」と呼ばれる一連の銅銭を発行し続けた。結果的に、和同開珎の流通は畿内とその周辺にとどまり、全国的な普及には至らなかったものの、日本に「貨幣経済」という新たな概念を導入し、国家による貨幣統制の端緒を開いたという点で、その歴史的意義は極めて大きいと言える。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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