三菱商会

岩崎弥太郎が設立し、台湾出兵や西南戦争の軍事輸送などを請け負って海運業を事実上独占した企業は何か?
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★★★

【参考リンク】
三菱財閥(Wikipedia)

三菱商会

1873年

【概説】
岩崎弥太郎が土佐藩の海運事業を引き継いだ九十九商会を源流とし、1873(明治6)年に改称・設立された海運企業。大久保利通や大隈重信ら政府要人と結びつき、台湾出兵や西南戦争における軍事輸送を独占して巨利を得た。手厚い政府保護のもとで外国企業を退けて日本の海運業を独占し、のちの三菱財閥の強固な基礎を築き上げた。

土佐藩の事業継承と「三菱」の誕生

三菱商会の源流は、幕末に土佐藩が長崎に設けた開成館長崎商会に遡る。同商会で事業に関わっていた岩崎弥太郎は、1871(明治4)年の廃藩置県に伴い、藩の海運事業や所有船を引き継いで民営の「九十九商会(つくもしょうかい)」を実質的に経営するようになった。その後、三川商会への名称変更を経て、1873(明治6)年に自らの事業として「三菱商会」を設立した。社名の「三菱」は、土佐藩主山内家の家紋である「三つ柏」と、岩崎家の家紋「三階菱」を組み合わせた社章に由来している。

政商としての飛躍と海運独占

設立当初の三菱商会は、政府の強力な庇護を受けて急速に成長を遂げた。特に大久保利通や大隈重信といった政府要人と深い関係を築き、典型的な「政商」としての地位を確立していく。1874(明治7)年の台湾出兵においては、政府が外国から購入した輸送船の運航を委託され、軍用輸送を独占した。この功績により、戦後には政府から外国船13隻が無償で払い下げられたうえ、手厚い助成金を獲得した。さらに、1877(明治10)年の西南戦争でも政府軍の兵員や軍需物資の輸送を一手に引き受け、莫大な利益を上げた。これらの軍事輸送を通じて三菱商会は、国内の他の中小船主を圧倒し、日本の海運業における独占体制を築き上げたのである。

外国資本との競争と海運自主権の確立

三菱商会の飛躍は、単に国内市場の独占に留まらず、欧米列強の海運資本からの「海運自主権の回復」という国家的な課題とも合致していた。当時、日本の沿岸航路や上海航路は、アメリカの太平洋郵船(PM社)やイギリスのP&O社といった強力な外国資本に脅かされていた。政府はこれらの外国船に対抗するため、三菱商会に多額の資金援助と特権を与え、激しい運賃競争(ダンピング競争)を展開させた。政府の全面的な支援を受けた三菱は、PM社から上海航路の権益や船舶を買収し、P&O社をも事実上撤退に追い込むことに成功した。これにより、日本国内における沿岸航路の主導権を外国資本から奪還することに貢献したのである。なお、この海運保護政策推進の過程である1875(明治8)年に、社名を「郵便汽船三菱会社」へと改めている。

共同運輸会社との死闘と日本郵船への発展

しかし、1881(明治14)年に起きた明治十四年の政変によって、最大の庇護者であった大隈重信が政府から追放されると、三菱を取り巻く環境は激変した。大隈と対立関係にあった井上馨や品川弥二郎ら政府首脳、そして渋沢栄一らは三菱の海運独占による弊害を強く批判し、1882(明治15)年に反三菱の半官半民会社である共同運輸会社を設立した。両社は熾烈な運賃競争とサービス競争を繰り広げ、海運業界は共倒れの危機に瀕した。

この消耗戦の最中である1885(明治18)年、岩崎弥太郎が病死する。その後、政府の強力な調停が入り、両社は合併して新たに日本郵船会社が設立された。これにより三菱は海運部門を事実上切り離すことになったが、弥太郎の弟である岩崎弥之助の指揮のもと、すでに着手していた高島炭鉱などの鉱山経営や造船業、のちには銀行業・地所部門などへと事業の多角化を推し進めた。海運業における独占体制で蓄積された莫大な資本は、近代日本を代表する巨大コンツェルンである三菱財閥を形成する強固な基盤となったのである。

岩崎弥太郎と三菱四代 (幻冬舎新書 か 11-1)

激動の幕末から財閥形成に至るまで、三菱の礎を築いた創業者と継承者たちの情熱と苦闘を綴った経営の系譜。

三菱化成社史 (1981年)

巨大企業の歴史を紐解く膨大な記録であり、日本の化学産業が歩んだ知られざる発展の軌跡を克明に刻んだ社史。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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