白虎隊

戊辰戦争における会津戦争で、16〜17歳の少年たちによって編成され、飯盛山で自刃した悲劇で知られる部隊を何というか?
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【参考リンク】
白虎隊(Wikipedia)

白虎隊 (びゃっこたい)

1868年

【概説】
幕末の戊辰戦争(会津戦争)において、会津藩が組織した16〜17歳の武家男子による予備兵力部隊。藩校・日新館で学んだ少年たちによって構成され、飯盛山での悲劇的な自刃によって後世に広く知られる。激動の幕末維新期における地方藩の悲劇を象徴する存在である。

会津藩の軍制改革と白虎隊の結成

1868(慶応4)年に勃発した戊辰戦争において、新政府軍と対峙した会津藩は、軍備の近代化と再編成を迫られた。この際、中国の四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)にちなんで年齢別に部隊が編成された。50歳以上の「玄武隊」、36歳から49歳までの「青龍隊」、18歳から35歳までの「朱雀隊」が実戦主力とされ、最も若い16歳から17歳(数え年で17歳から18歳)の武家男子によって構成されたのが白虎隊である。

白虎隊の隊士たちは、会津藩の藩校である日新館で、厳しい儒教的道徳や文武両道の教育を受けていた若きエリートたちであった。本来は予備兵力としての位置づけであり、実戦への本格投入は想定されていなかったが、戦況の急速な悪化に伴い、藩防衛の最終局面において前線へと赴くこととなった。

戸ノ口原の戦いと飯盛山の悲劇

新政府軍が東山道から会津盆地へと侵攻する中、白虎隊のうち藩主・松平容保の警護にあたっていた士中二番隊(37名)は、要衝である戸ノ口原(とのくちはら)への出撃を命じられた。しかし、圧倒的な兵力と近代兵器を擁する新政府軍の前に敗退を余儀なくされ、少年たちは負傷者を抱えながら退却ルートを模索した。

過酷な状況下で飯盛山へと逃れた隊士20名は、そこから望む城下町が激しい炎と煙に包まれ、会津若松城(鶴ヶ城)が炎上しているかのような光景を目撃した。これを「落城」と誤認した少年たちは、敵の手にかかって生きて恥を晒すよりも、武士の遺風を重んじて自刃することを選択した。一死を留めて救助された飯沼貞吉を除く19名がこの地で命を落とした。この悲劇的な結末は、明治以降、国家への忠義や武士道精神の象徴として広く美化・喧伝され、国民的記憶として定着することとなった。

まんが 会津白虎隊

悲劇の少年たちの奮闘と最期をドラマチックに描き切った、歴史を学ぶ入門として最適な一冊。

<増補決定版> 白虎隊 PHP文庫

飯盛山で自刃した若き兵士たちの真実の姿を、数多の史料と証言から丹念に掘り起こした渾身の歴史書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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