松平慶永(春嶽)

一橋派の中心として徳川慶喜を推し、のちに島津久光の推進した文久の改革で「政事総裁職」に就任した越前藩主は誰か?
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【参考リンク】
松平春嶽(Wikipedia)

松平慶永(春嶽) (まつだいらよしなが(しゅんがく)

1828〜1890

【概説】
越前国福井藩の第16代藩主。幕末の動乱期において一橋派の中心人物として活躍し、のちの幕政改革(文久の改革)では政事総裁職を務めた幕末の四賢侯の一人。明治維新後も新政府で要職を歴任し、近代日本の形成に尽力した。

越前藩政の改革と有能な人材の登用

松平慶永は、御三卿の一つである田安徳川家から越前松平家に養子として入り、福井藩主となった。当時の福井藩は財政難に苦しんでいたが、慶永は中根雪江をはじめとする有能な家臣を重用し、藩政改革に乗り出した。特に特筆されるのは、下級武士であった橋本左内を見出し、藩の要職に抜擢したことである。左内の進言により、洋学の導入、軍制改革、種痘の実施、殖産興業政策などが推進され、福井藩は幕末屈指の雄藩へと成長していった。

将軍継嗣問題と安政の大獄

ペリー来航による外圧の危機が迫る中、慶永は薩摩藩主の島津斉彬、宇和島藩主の伊達宗城、土佐藩主の山内豊信(容堂)らとともに、幕政に積極的に介入し、彼らはのちに幕末の四賢侯と称された。第13代将軍・徳川家定が病弱で世嗣がいなかったため、次期将軍を巡る将軍継嗣問題が浮上すると、慶永らは英明な水戸藩主徳川斉昭の子・一橋慶喜を推挙する一橋派を形成した。

しかし、譜代大名を中心とする南紀派が推す紀伊藩主の徳川慶福(のちの家茂)が次期将軍に決定する。大老に就任した井伊直弼が朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約に調印したことに激怒した慶永は、徳川斉昭らとともに不時登城を行って直弼を詰問したが、逆にこれを咎められ、安政の大獄によって隠居・謹慎処分を受けた。この隠居後に名乗った号が「春嶽」である。

文久の改革における政事総裁職への就任

桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、薩摩藩の島津久光による率兵上京を契機として、幕府は朝廷の意向を汲む形で幕政改革を余儀なくされた(文久の改革)。これにより謹慎を解かれた慶永(春嶽)は復権し、新設された政事総裁職に就任した。

政事総裁職は、将軍後見職となった一橋慶喜、京都守護職に就いた会津藩主の松平容保とともに幕政を主導する重要な役職であった。慶永は、参勤交代の緩和(3年に1度の出府へ変更)や西洋式軍制の導入など、幕府の旧弊を打破する改革を断行した。しかし、京都で激化する尊王攘夷運動の波を抑えきれず、朝廷との関係調整にも行き詰まりを感じたため、わずか数ヶ月で自ら職を辞することとなった。

公議政体論の模索と大政奉還

その後も慶永は幕政への関与を続け、雄藩の有力諸侯による合議制を目指す公議政体論を提唱した。1863年の参預会議や、1867年の四侯会議などにおいて、一橋慶喜(のちに第15代将軍)や島津久光らと国政の在り方を巡って議論を交わしたが、意見の対立からいずれも短期間で頓挫している。

幕府単独での政権維持が限界に達したと判断した慶永は、土佐藩の山内豊信らとともに大政奉還の実現に尽力した。王政復古の大号令によって江戸幕府が滅亡し、新政府が樹立されると、慶永は議定として迎えられ、その後も内国事務総督、民部卿、大蔵卿などの要職を歴任した。1870年に政界を引退した後は、著述活動などに専念し、幕末維新期の貴重な記録を残した。

松平春嶽 (人物叢書)

幕末の激動を賢明な先見の明で切り拓いた、名君・松平春嶽の生涯を丹念に描き出す歴史的な評伝の決定版。

徳川慶喜公伝 1 (東洋文庫0088)

最後の将軍としての苦悩と決断を当事者の視点で克明に記録し、明治維新の光と影を映し出す貴重な史料の集成。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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