カインの末裔 (かいんのまつえい)
【概説】
大正時代に有島武郎が発表した短編小説。北海道の過酷な大自然を舞台に、小作農の広岡仁右衛門が本能のままに荒々しく、かつ孤独に生きる姿を描いた、大正文学を代表するリアリズムの傑作である。
白樺派の異端・有島武郎と北海道の「現実」
有島武郎は、志賀直哉や武者小路実篤らとともに文学結社「白樺」に参加し、大正文学を代表する作家の一人として活動した。しかし、他の白樺派作家が特権階級の温室的な環境から理想主義や人道主義を唱えたのに対し、有島は米国留学を経て、北海道の狩太(現・ニセコ町)にある父の農場を管理するという実社会の経験を持っていた。この北海道における小作人たちの過酷な生活実態と、彼らを搾取する地主階級としての自己の特権に対する知識人的な苦悩が、有島文学の深みを生み出すこととなった。1917年(大正6年)に発表された『カインの末裔』は、こうした有島独自の現実認識とキリスト教的な「罪」の意識が交錯する中で生まれた記念碑的作品である。
「広岡仁右衛門」の造形と旧約聖書のモチーフ
タイトルの「カイン」とは、旧約聖書『創世記』に登場する、人類最初の殺人者(弟アベルを殺害した兄)であり、神の祝福から見放されて地上を彷徨う宿命を背負わされた存在を指す。本作の主人公である広岡仁右衛門は、このカインのイメージを体現している。仁右衛門は、圧倒的な肉体と野性的な本能のみを頼りに、北海道の過酷な自然に挑む無学な小作農である。彼は道徳や社会の規範を理解せず、周囲の小作人仲間からも孤立し、ひたすら自己の生存欲求に従って荒々しく生きる。有島は、この孤独な男が自然災害や病によって追い詰められ、挫折していく姿を冷徹なリアリズムで描写し、神の救済から取り残された人間の生々しいエゴイズムと運命の悲劇性を浮き彫りにした。
文学的評価と「農場解放」への思想的軌跡
本作は、当時の白樺派文学に顕著であった、自己を肯定する主観的な理想主義とは一線を画し、人間の醜悪な一面や抗えない宿命を対峙させた点に大きな文学的価値がある。自然主義文学の冷徹な客観描写を取り入れつつも、人間の内なる生命力の悲劇性を格調高く表現した表現力は、近代日本文学において高く評価されている。また、本作に描かれた地主と小作農の非対称な関係は、有島自身の倫理的苦悩をさらに深めることとなった。彼はこの創作活動を経て、1922年(大正11年)に自らの狩太農場を無償で小作人たちに解放し、共同生活を営ませる「農場解放」を実践するに至る。文学的探究が社会実践へと結びついた点でも、本作は歴史的にきわめて重要な意味を持っている。