徳川(一橋)慶喜

一橋派から次期将軍候補として推された水戸藩主・徳川斉昭の子で、のちに第15代将軍となって大政奉還を行った人物は誰か?
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徳川(一橋)慶喜 (とくがわ(ひとつばし)よしのぶ)

1837年〜1913年

【概説】
水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれ、一橋徳川家を継いだ江戸幕府第15代にして最後の征夷大将軍。将軍継嗣問題で一橋派に推されるも南紀派に敗れて蟄居し、後に将軍後見職として幕政に復帰した。大政奉還によって約260年続いた江戸幕府の歴史に自ら幕を下ろし、日本が近代国家へと歩み出す転換期において極めて重要な役割を果たした政治家である。

水戸藩からの出世と将軍継嗣問題

徳川慶喜は1837(天保8)年、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の七男(幼名・七郎麻呂)として江戸に生まれた。幼少期より水戸藩の厳しい教育である「弘道館」の学風を受け継ぎ、文武両道に秀でた才気煥発な青年へと成長した。その英邁さを高く評価した第12代将軍・徳川家慶の意向もあり、1847年に御三卿の一つである一橋家を相続した。

1850年代後半、病弱で跡継ぎのいない第13代将軍・徳川家定の後継を巡る将軍継嗣問題が浮上する。迫り来る欧米列強の脅威に対抗するため、英明な年長者を将軍に据えようとする越前藩主・松平慶永(春嶽)や薩摩藩主・島津斉彬らは慶喜を擁立した(一橋派)。一方、血統を重視し、紀伊藩主・徳川慶福(後の家茂)を推す譜代大名らの勢力(南紀派)がこれと対立した。結果として、大老に就任した井伊直弼ら南紀派が勝利し、慶喜は将軍の座を逃した。さらに、直弼が断行した安政の大獄によって、慶喜は隠居・謹慎処分を受けることとなった。

幕政復帰と京都における権力闘争

1860年の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、幕府の権威は急速に失墜した。この状況を立て直すべく、薩摩藩の島津久光の要求を受けた朝廷からの勅命により、1862年の文久の改革で慶喜は将軍後見職に任命され、政界への復帰を果たした。同時に政事総裁職に就任した松平慶永らとともに、朝廷と幕府の融和を図る公武合体運動を推進していくこととなる。

その後、慶喜は京都に赴き、朝廷を巻き込んだ複雑な政治闘争の矢面に立った。1863年の八月十八日の政変で急進的な尊王攘夷派である長州藩を京都から追放し、翌1864年には禁裏御守衛総督として、御所へ進軍してきた長州藩兵を撃退した(禁門の変)。慶喜は京都守護職の松平容保(会津藩)や京都所司代の松平定敬(桑名藩)と連携して「一会桑政権(一橋・会津・桑名)」と呼ばれる強力な政治体制を京都に構築し、幕府の権威回復と国政の主導権確保に尽力した。

第15代将軍就任と慶応の改革

1866(慶応2)年、第二次長州征討の最中に第14代将軍・徳川家茂が大坂城で急死した。慶喜は周囲からの強い要望により徳川宗家を相続したが、当初は征夷大将軍の就任を固辞し続けた。しかし、同年12月に第15代将軍に就任し、難局に立たされた幕府の舵取りを完全に引き受けることとなった。

将軍となった慶喜は、フランス公使ロッシュの助言と資金援助を受けながら、幕府権力の強化と近代化を目指す慶応の改革を強力に推し進めた。陸軍の西洋式軍制への改組、横須賀製鉄所の建設、さらには老中制度の再編による実質的な内閣制度の導入など、幕府を中央集権的な近代国家の政府へと脱皮させようと試みた。慶喜の政治力と実行力は、倒幕を目指す薩摩藩や長州藩にとって最大の脅威であったとされる。

大政奉還と鳥羽・伏見の戦い

薩長同盟の結成など武力討幕の機運が頂点に達する中、1867(慶応3)年10月、慶喜は土佐藩の山内豊信(容堂)と後藤象二郎からの建白を受け、朝廷へ政権を返上する大政奉還を奏上した。これは単なる降伏ではなく、政権を朝廷に返上することで討幕派の大義名分を奪い、徳川家が筆頭となる新たな諸侯会議(公議政体体制)を創設して、実質的な支配権を維持し続けるという慶喜の高度な政治的奇策であった。

しかし、武力による幕府打倒と徳川家の排除を目指す岩倉具視や大久保利通らは、同年12月に王政復古の大号令を発し、慶喜に辞官納地(官職と領地の返上)を命じた。これに反発した旧幕府軍は、1868年1月に京都の南郊で新政府軍と衝突した(鳥羽・伏見の戦い)。緒戦で旧幕府軍が敗れ、新政府軍に錦の御旗が翻ると、朝敵となることを恐れた慶喜は軍勢を置き去りにして海路で大坂から江戸へと逃亡した。

江戸開城と歴史的評価

江戸に戻った慶喜は、主戦派の小栗忠順らを罷免し、恭順の意を示すため上野の寛永寺に謹慎した。勝海舟と西郷隆盛の会談によって江戸無血開城が実現すると、慶喜は水戸、のち駿府(静岡)へと移り、政治の世界から完全に身を引いた。明治維新後は写真撮影や狩猟、自転車などの趣味に没頭する穏やかな生活を送り、1902(明治35)年には公爵を授爵して貴族院議員に就任し、天皇の臣下として名誉を回復した。

徳川慶喜の歴史的評価は、戦場から逃亡した「暗君」とする批判がある一方で、当時の複雑な国際情勢や国内の対立構造を冷静に見極めていた「英明な政治家」としての評価も高い。彼が大政奉還と恭順の道を選んだことで、日本は欧米列強の干渉や植民地化を招きかねない全面的な内戦状態(泥沼の長期戦)を回避することができた。その意味において、慶喜は近代日本の独立と統一を影から決定づけた最大の功労者の一人と言える。

その後の慶喜: 大正まで生きた将軍 (ちくま文庫 い 90-1)

激動の幕末を終えた徳川慶喜が、明治・大正という新しい時代をいかに静かに生き抜いたのかを解き明かす貴重な評伝。

新装版 最後の将軍 徳川慶喜 (文春文庫)

権力の頂点から転落し歴史の表舞台を去った最後の将軍が、数奇な運命の中でいかなる人生を送ったのかを辿る一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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