松平康英 (まつだいらやすひで)
1768年~1808年
【概説】
江戸時代後期の幕臣、長崎奉行。文化5年(1808年)に発生したイギリス軍艦による不法侵入事件(フェートン号事件)の際、防備不足から不条理な要求を呑まざるを得なかった責任を取り、自決した人物である。
フェートン号事件と奉行の苦渋の決断
文化5年(1808年)8月、ナポレオン戦争の影響下でオランダ商船の捕獲を狙うイギリス軍艦フェートン号が、オランダ国旗を掲げて長崎港に密入港した。長崎奉行であった松平康英は、長崎出島オランダ商館の所員を人質に取られ、薪水や食料の提供を強要される事態に直面した。康英は直ちにイギリス船の撃退および人質奪還を計画し、長崎警備の義務を負っていた佐賀藩・福岡藩に兵力動員を命じた。しかし、当時の佐賀藩は無断で守備兵力を大幅に減らしており、即座に動かせる兵力が著しく不足している状態であった。人質の命を重んじた康英は、最終的にイギリス側の要求を受け入れて物資を供与し、フェートン号を退去させるという屈辱的な解決をとらざるを得なかった。
責任の引責と対外防備への警鐘
フェートン号が去った翌日の8月17日、松平康英は国威を辱め異国船の侵入を許した責任を痛感し、長崎の立山役所にて切腹を遂げた。この事件と康英の死は幕府に大きな衝撃を与え、長崎警備を怠っていた佐賀藩主の鍋島斉直には閉門処分が下された。後に佐賀藩が近代的な軍事技術の導入や藩政改革に猛進する契機となったのも、この事件の反省からである。康英の自決は、長年の平和に慣れきっていた江戸幕府に対して、鎖国体制の危機と沿岸防備の脆弱性を強烈に突きつけることとなった。