日米通商航海条約廃棄通告
【概説】
1939年(昭和14年)、アメリカ政府が日本政府に対し、1911年に締結された日米通商航海条約を6ヶ月後に廃棄すると通告した外交的措置。
日中戦争を推し進める日本に対してアメリカが経済制裁を発動するための法的な準備であり、日米関係を決定的な破局へと導き、太平洋戦争へと至る重要な転換点となった。
日中戦争の長期化と米国の対日姿勢の硬化
1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争が泥沼化の様相を呈する中、日本は近衛文麿内閣の下で「東亜新秩序」の建設を宣言し、中国大陸における権益の独占とブロック経済圏の構築を図っていた。これに対し、かねてより中国における「門戸開放・機会均等」を外交の基本方針としていたアメリカは、自国の権益が侵害されるとして強い警戒と反発を抱いていた。
当初、アメリカは国内の孤立主義的傾向もあって直接的な介入を避けていたが、日本軍によるアメリカ砲艦パンナイ号爆撃事件(1937年)や、中国での第三国権益の排斥が顕著になるにつれて、政府内や世論における対日強硬論が急速に高まっていった。アメリカは日本に対し、武力による現状変更を非難する抗議を繰り返したが、日本の行動に変化は見られなかった。
突然の廃棄通告とアメリカの真の意図
こうした緊張状態の中、1939年(昭和14年)7月26日、アメリカのコーデル・ハル国務長官は、当時の駐米大使である堀内謙介に対し、1911年(明治44年・小村寿太郎の尽力により関税自主権を回復した条約)に結ばれた日米通商航海条約を、条約の規定に従い6ヶ月後に廃棄することを通告した。
この唐突とも言える通告の最大の目的は、日本に対する単なる道義的な抗議や威嚇にとどまらず、軍需物資の対日輸出制限(経済制裁)を合法的に実施するための法環境を整えることにあった。通商条約が存在する限り、特定の国に対してのみ差別的な禁輸措置をとることは条約違反となる。アメリカは、日本への経済的圧力を本格化させるために、まずこの外交的な足かせを外す必要があったのである。
「無条約状態」の到来と太平洋戦争への道程
通告から6ヶ月が経過した1940年(昭和15年)1月26日、条約は正式に失効し、日米間は史上初めて通商関係における「無条約状態」へと突入した。これ以降、アメリカは日本への牽制を実際の行動へと移し、航空機用燃料や屑鉄などの戦略物資に対する輸出許可制(事実上の禁輸措置)を段階的に発動していった。
当時、戦争遂行に必要な石油や鉄鋼などの資源の大部分をアメリカからの輸入に依存していた日本経済にとって、この措置は大打撃であった。しかし、日本は中国大陸からの撤兵というアメリカの要求に応じることなく、逆に不足する資源を求めて東南アジアへの武力進出(南進)を決定し、同年9月には日独伊三国同盟の締結へと踏み切ることになる。
結果として、日米通商航海条約廃棄通告は、両国間の外交的妥協の余地を著しく狭め、日本をさらなる国際的孤立と対米開戦(太平洋戦争)という破滅的な選択へと追い詰めていく、極めて決定的なマイルストーンとなったのである。