ブロック経済

高校日本史的重要度
★★★

ブロック経済

1930年代

【概説】
1929年の世界恐慌以降、イギリスやフランスなどの列強が自国と植民地・従属国を一つの経済圏(ブロック)として囲い込んだ排他的な保護貿易体制。域外からの輸入品に高率の関税を課す一方で域内貿易を優遇し、自国産業の防衛を図った。この体制は、広大な植民地を持たない日本に深刻な打撃を与え、独自の自給自足圏を求める対外膨張政策を誘発して第二次世界大戦を引き起こす一因となった。

世界恐慌による自由貿易の崩壊

1929年秋にアメリカで発生した世界恐慌は瞬く間に世界中に波及し、各国の経済に壊滅的な打撃を与えた。これに対する生存戦略として、広大な植民地や勢力圏を持つ「持てる国」が採用したのがブロック経済である。

1932年、イギリスオタワ連邦会議を開催し、イギリス本国と自治領・植民地との間で特恵関税制度を結んで「スターリング・ブロック(ポンド・ブロック)」を形成した。同様にフランスもアフリカなどの植民地を抱え込んだ「フラン・ブロック」を形成し、アメリカも自国と中南米諸国を中心とする「ドル・ブロック」を構築した。これにより、第一次世界大戦後の国際協調を下支えしていた自由貿易体制は崩壊し、世界経済は高い関税障壁によって分断されていった。

「持たざる国」日本の窮状と孤立

この国際的な保護貿易の潮流は、豊富な資源や広大な市場を持たない「持たざる国」であった日本に深刻な影響を及ぼした。当時、昭和恐慌の直撃を受けた日本経済は、主要な輸出品であった生糸のアメリカ向け輸出が激減し、農村を中心に甚大な被害を受けていた。

1931年の金輸出再禁止に伴う円安を利用して、日本は綿織物などの安価な軽工業製品をアジア市場へ輸出することで恐慌からの脱出を図った。しかし、イギリス領インドやオランダ領東インド(現在のインドネシア)などの植民地市場において高率の関税が課され、日本製品は厳しく排斥された。列強による締め出しは日本の貿易立国としての活路を断ち切るものであり、軍部右翼勢力の間に「欧米列強の経済的包囲網を打破しなければ国家の生存はない」という強烈な危機感を醸成した。

「日満支ブロック」の追求と武力膨張

こうした経済的閉塞感を打破するため、日本は武力による独自の自給自足経済圏の獲得へと突き進んだ。1931年(昭和6年)の満州事変によって満州国を建国した日本は、日本・朝鮮・台湾満州を加えた「円ブロック」を形成した。しかし、これだけでは資源や市場として不十分であったため、軍部はさらに中国北部(華北)へと勢力を拡大し、「日満支経済ブロック」の構築を画策するようになった。

これは、欧米の経済的囲い込みに対抗し、東アジアに日本を中心とする自立的な広域経済圏を打ち立てようとする試みであった。だが、この露骨な対外膨張政策は中国の激しい民族的抵抗を招き、1937年(昭和12年)には全面的な日中戦争へと発展した。さらには、中国市場の門戸開放を主張するアメリカやイギリスの権益とも真っ向から衝突することになった。

第二次世界大戦への道程と歴史的教訓

ブロック経済がもたらした世界市場の分断は、結果として経済問題を軍事力で解決しようとする動きを正当化してしまった。日本だけでなく、同じく植民地に乏しいドイツイタリアでもファシズムが台頭し、現状打破を目指して近隣諸国への侵略を開始したのである。

後に日本が掲げた「大東亜共栄圏」構想も、極言すれば極端なブロック経済の武力的追求であった。こうして「持てる国」と「持たざる国」の対立は修復不可能な段階に達し、第二次世界大戦太平洋戦争)という未曾有の惨禍を引き起こした。戦後、この多大な犠牲への反省から国際社会は、GATT関税および貿易に関する一般協定)やIMF国際通貨基金)を設立し、保護貿易を抑制して自由貿易体制を維持することが世界の平和と安定に不可欠であるという教訓を共有することとなった。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:44

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