どんどん焼け (どんどんやけ)
1864年
【概説】
幕末の禁門の変(蛤御門の変)に伴って発生した、京都史上最大級の大火。戦闘による失火や放火が原因となり、数日間にわたって京都市街の大部分を灰燼に帰した未曾有の災害。
禁門の変と火の手の広がり
1864年(元治元年)7月19日、前年の「八月十八日の政変」により京都から追放されていた長州藩が、勢力挽回と藩主の無実を訴えるために軍事行動を起こし、京都御門周辺で幕府軍(会津・薩摩・桑名藩など)と衝突した。これが禁門の変(蛤御門の変)である。この激しい戦闘のさなか、長州軍の拠点であった天龍寺や、河原町の長州藩邸などが放火あるいは被弾によって炎上した。さらに、中立売門付近の戦闘から出火した火は、折悪しく吹いていた北西の強風に煽られて南下し、市街地へと急速に燃え広がっていった。
壊滅的な被害と社会的影響
火勢は文字通り「どんどん」と音を立てて燃え盛るような勢いであり、7月21日までの約3日間にわたって京の町を焼き尽くした。この大火により、上京・下京の町家約2万7000世帯以上が焼失し、京都全体の約7割から8割が灰燼に帰したと伝えられている。多くの公家屋敷や寺社(東本願寺や西本願寺の一部など)も被災し、歴史的な文化財が数多く失われた。幸いにも皇居(京都御所)や二条城は延焼を免れたものの、焼け出された数万人規模の避難民が市内に溢れ、京都の社会秩序は一時的に崩壊した。この「どんどん焼け」による甚大な被害は、戦乱の恐怖を京都の民衆に植え付けるとともに、市街地を戦場にして延焼を防げなかった江戸幕府に対する強い不信感や、長州藩への怨嗟を募らせる契機となった。