五代友厚 (ごだいともあつ)
【概説】
幕幕薩摩藩士から実業家に転身し、近代大阪の経済基盤を築き上げた政商。大阪商法会議所の初代会頭を務めるなど「西の五代」と称される一方、開拓使官有物払い下げ事件に関与したことで世論の激しい批判を浴びた。この事件は明治十四年の政変を誘発する契機となった。
薩摩藩士から実業家への転身と大阪経済の再建
五代友厚は天保6(1836)年、薩摩藩士の家に生まれた。藩の長崎海軍伝習所で学び、薩英戦争の際には英国軍の捕虜となる経験を経た。釈放後は藩の使節団として英国へ留学し、西欧の近代工業や社会制度を広く視察した。この時の経験が、後の実業家としての先見性を養うこととなる。明治維新後は新政府の外国官判事などを歴任したが、1869年に下野し、実業界へと身を転じた。
当時、東京への遷都や銀目廃止(貨幣制度改革)によって地盤沈下が進んでいた大阪の経済を救うため、五代は奔走した。大阪株式取引所や大阪商法会議所(初代会頭)の設立を主導し、鉱山経営や造船業、製藍業など多岐にわたる近代産業を興した。これにより、渋沢栄一と並び「東の渋沢、西の五代」と称されるほどの大阪経済の救世主となった。
開拓使官有物払い下げ事件と明治十四年の政変
大阪の近代化を牽引する一方で、五代は薩摩藩出身の官僚たちと密接に結びついた有力な政商でもあった。この官民の癒着が社会的な大スキャンダルへと発展したのが、1881(明治14)年の開拓使官有物払い下げ事件である。
当時、北海道開拓使長官であった同郷の黒田清隆は、約1400万円の国費を投じて整備した工場や船舶などの官有物を、五代が率いる関西貿易社に対し、わずか38万円余り、しかも30年無利息の分割払いという極めて有利な条件で払い下げようとした。この計画が新聞報道などによって世間に漏洩すると、国民や自由民権運動家は「藩閥による国権の私物化」であるとして、五代と政府を激しく糾弾した。
この世論の沸騰は政府内の主導権争いと連動し、払い下げに反対して早期の国会開設を主張した参議・大隈重信が政府から追放されるにいたった(明治十四年の政変)。最終的に払い下げは中止され、政府は「国会開設の詔」を出して世論の沈静化を図ることとなった。五代自身は政商の代表格として激しい非難を浴びることとなったが、近年では、単なる私利私欲ではなく、官主導から民間主導へと移行期の産業開発を推し進めようとした実業家としての側面も再評価されている。