後藤象二郎 (ごとうしょうじろう)
【概説】
土佐藩の参政として幕末の政局を主導し、大政奉還の実現に多大な貢献をした政治家。坂本龍馬の構想を受け入れて前藩主の山内容堂を説得し、15代将軍徳川慶喜に政権返上を建白した。明治維新後は政府の要職を歴任する一方で、板垣退助らとともに自由民権運動の指導者としても活躍した。
吉田東洋の薫陶と土佐藩政への参画
後藤象二郎は、土佐藩の上士(馬廻格)の家に生まれた。幼少期より親類であった開明派の重臣・吉田東洋に師事し、蘭学や西洋事情など広範な知識を吸収した。1862年(文久2年)に土佐勤王党によって東洋が暗殺されると、後藤も一時的に失脚を余儀なくされるが、やがて前藩主・山内豊信(容堂)の厚い信任を得て復権を果たした。
大監察から参政へと異例の出世を遂げた後藤は、容堂の意向を体現する形で藩政を指導し、開成館を設立して富国強兵や殖産興業を推進した。政治路線としては公武合体を支持し、尊王攘夷派である土佐勤王党の武市瑞山らを弾圧して藩内の実権を確固たるものとした。
坂本龍馬との結びつきと大政奉還の建白
後藤の歴史的意義が最も際立つのは、慶応年間の活動である。1867年(慶応3年)、後藤は長崎で同郷の脱藩浪士・坂本龍馬と会談(清風亭会談)を行った。かつて対立関係にあった両者だが、後藤は龍馬の非凡な見識を高く評価し、彼の脱藩の罪を赦免した上で、龍馬が率いる亀山社中を土佐藩の外郭団体である海援隊として再編させた。
同年、後藤は龍馬と共に上京する船中で、龍馬から新たな国家構想である「船中八策」を提示された。政権を朝廷に返上し、議会政治を導入するというこの画期的な構想に深く共鳴した後藤は、これを土佐藩の公式な建白書として取りまとめた。そして、公武合体派として幕府への恩義に縛られていた山内容堂を熱心に説得し、ついに容堂の名で15代将軍・徳川慶喜に対し大政奉還の建白を行ったのである。この建白が決定打となり、慶喜は政権返上を決断。討幕派による武力衝突を土壇場で回避し、平和的な政権移行への道筋をつけるという日本史上の歴史的転換点をもたらした。
明治新政府での活躍と自由民権運動への参加
明治維新後、後藤は新政府において参与、左院議長、参議などの要職を歴任し、初期の近代国家建設に尽力した。しかし、1873年(明治6年)の征韓論争において西郷隆盛や板垣退助らを支持したため、敗れて下野した(明治六年の政変)。
政府を去った後藤は、翌1874年(明治7年)に板垣退助や江藤新平らと共に愛国公党を結成し、左院に対して民撰議院設立建白書を提出した。これが自由民権運動の発端となり、後藤は国民の政治参加と国会開設を求める運動の指導的役割を担うこととなった。また、この時期には実業家としての活動も行い、高島炭鉱の経営などに乗り出したが、事業は振るわず、後に同郷の岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)に譲渡している。
大同団結運動と晩年の動向
1881年(明治14年)に自由党が結成されると、後藤もこれに加わった。その後、自由党が解党へと追い込まれる中、1887年(明治20年)に後藤は分裂していた民権派の再結集を呼びかける大同団結運動を提唱し、再び反政府運動の大きなうねりを作り出した。
しかし、1889年(明治22年)に黒田清隆内閣から逓信大臣としての入閣を打診されると、後藤はこれを受諾してしまう。指導者の突然の政府入りによって大同団結運動は急速に瓦解し、後藤は民権派から激しい批判を浴びることとなった。その後も農商務大臣などを務めたが、かつてのような政治的影響力を発揮することはなく、1897年(明治30年)に心臓病のためこの世を去った。幕末の危機を大局的な政治手腕で乗り切った功労者である一方、毀誉褒貶の激しい生涯であった。