陸羯南 (くがかつなん)
【概説】
新聞『日本』を創刊し、藩閥政府の極端な欧化主義や妥協的な外交姿勢を厳しく批判した明治時代のジャーナリスト。日本の伝統と言論の独立を重んじる独自の「国民主義」を唱え、近代日本の言論界に多大な影響を与えた。また、俳人・正岡子規の才能を見出し、終生にわたり物心両面から支え続けたパトロンとしても知られる。
新聞『日本』の創刊と「国民主義」の言論
陸羯南は弘前藩(現在の青森県)出身の言論人である。司法省法学校でフランス法を学んだのち、太政官官報局などの官職を経て、1889(明治22)年、大日本帝国憲法の発布と同日に新聞『日本』を創刊した。同紙は、井上馨らの条約改正交渉に代表される妥協的な外交姿勢や、鹿鳴館に象徴される極端な欧化主義を激しく批判し、知識層や青年層の間で爆発的な支持を獲得した。
羯南が主張した思想は「国民主義」と呼ばれる。これは単なる排外的な「国粋主義」とは一線を画し、国家の独立と伝統を維持しつつも、国民の権利伸張と言論の自由を重んじ、藩閥政府による利己的な政治を打破して真の立憲政治を実現しようとする、進歩的かつ健全なナショナリズムであった。彼の論説は、常に客観的な事実に基づき、理路整然とした冷徹な筆致で書かれていたため、政府からも一目置かれる存在であった。
平民主義との対峙と正岡子規への支援
同時代の言論界では、徳富蘇峰が率いる民友社の「平民主義」が、欧米の近代化モデルを導入して平民的な社会を築くことを主張し、若者の支持を集めていた。羯南の「国民主義」は、この平民主義と激しい思想論争を展開し、日本の主体性を保った近代化のあり方を模索した。のちに徳富蘇峰が日清戦争を契機として国家主義(帝国主義)へと転向したのに対し、羯南は言論の独立を守り通し、一貫して権力と対峙する独自の「国民主義」の立場を崩さなかった。
また、羯南は近代文化の発展、特に文学界においても極めて重要な役割を果たした。同郷の若き正岡子規の非凡な才能を見抜き、自身が主宰する新聞『日本』の記者として採用した。子規が結核を患った後も、羯南は彼の生活や療養を経済的・精神的に支え続け、子規が提唱した俳句・短歌の革新運動(写生説など)に発表の場を提供し続けた。羯南の深い理解と寛大な支援がなければ、近代短詩型文学の成立はあり得なかったと評されている。