武者小路実篤 (むしゃのこうじさねあつ)
【概説】
白樺派の中心的存在として大正期の文学・思想界を牽引した小説家、劇作家である。ロシアの文豪トルストイに傾倒して徹底した自己肯定と人道主義を掲げ、後年には宮崎県に理想的な共同体「新しき村」を建設するなど、思想の実践にも取り組んだ。
雑誌『白樺』の創刊と反自然主義
武者小路実篤は華族の出身として学習院に学び、同窓であった志賀直哉や有島武郎らとともに、1910年(明治43年)に文学・美術雑誌『白樺』を創刊した。当時の日本文壇は、人間の暗部や社会的現実を客観的かつ写実的に描こうとする自然主義文学が主流であったが、武者小路らはこれに反発した。彼らは人間の生命力や意志の力を肯定し、個性の伸長を重んじる理想主義的な作風を展開し、これを「白樺派」と呼ぶ。『白樺』は文学のみならず西洋の近代美術の紹介にも努め、大正時代の若者たちの教養形成に多大な影響を与えた。
トルストイへの傾倒と人道主義の展開
彼の思想の根底には、ロシアの文豪トルストイからの強い影響があった。武者小路はトルストイの説く博愛精神や労働の尊さに共鳴し、自己の良心を絶対視する人道主義(ヒューマニズム)を提唱した。代表作である『お目出たき人』や『友情』、『その妹』などの作品群では、自我を肯定し、自他の個性を尊重しながら人類愛へと向かうという楽天的なまでの理想主義が描かれている。こうした彼の徹底した自己肯定の思想は、個人の自由や自我の解放を求める大正デモクラシーの社会的風潮と強く結びつき、当時の青年層から熱狂的な支持を集めることとなった。
理想郷「新しき村」の建設
武者小路の実践的思想を象徴する出来事が、1918年(大正7年)の「新しき村」の建設である。彼は自身の唱える人道主義を現実社会で具現化するため、宮崎県の児湯郡に土地を購入し、階級闘争によらない平和的で平等な理想的共同体を目指した。村では「自己を生かし、他人も生かす」という理念のもと、農作業などの肉体労働を分担しつつ、余暇を芸術や知的活動に充てる生活が試みられた。後にダム建設のため埼玉県に移転を余儀なくされたものの、文学者が自らの理想郷を現実の共同体として建設し、協同生活を実践した試みは、大正期におけるユートピア運動として日本の思想史上において特筆される出来事である。
美術への関心と後年の活動
文学活動の傍ら、武者小路は美術に対する造詣も非常に深かった。『白樺』を通じてセザンヌやゴッホ、ロダンといった西洋の近代美術をいち早く日本に紹介した功績は極めて大きい。また、自身も数多くの絵画(主に静物画や風景画)や書を制作し、「仲きよき事は美しき哉」などの画賛を添えた独自の飄々とした表現は広く大衆に親しまれた。昭和期に入り、日中戦争から太平洋戦争期にかけては国家主義的な言動を見せたことで戦後に公職追放を受ける一幕もあったが、解除後は再び執筆活動を再開し、90歳で没するまで文化人として多方面で影響力を保ち続けた。