後漢

重要度
★★★

後漢

25年〜220年

【概説】
1世紀半ばに光武帝によって建国され、3世紀初頭まで存続した中国の王朝。日本列島が弥生時代の中期から後期にあたる時期に存在し、奴国や帥升が使節を派遣するなど、古代日本(倭)が中国王朝との政治的関係を深める重要な契機となった。

後漢の成立と東アジアの国際関係

後漢は、前漢が滅亡した後の混乱を収拾し、紀元25年に光武帝(劉秀)によって建てられた王朝である。都を長安から東の洛陽に遷したため、東漢とも呼ばれる。後漢は周辺諸民族に対して、朝貢を条件に国王としての地位を承認する冊封体制(さくほうたいせい)を敷き、東アジアの国際秩序を再構築しようとした。日本列島(当時の中国からの呼称は)は弥生時代の中期から後期にあたり、各地で農耕社会を基盤とした小国が分立し、統合へ向かう過渡期にあった。倭の有力な小国の首長たちは、国内の抗争において優位に立つため、先進的な鉄器などの文物を獲得するとともに、後漢という強大な帝国の権威を後ろ盾として求めたのである。

奴国の遣使と金印の授与

後漢と倭の交渉を記録した最初の重要な史料が、中国の歴史書『後漢書』東夷伝である。同書には、建武中元2年(57年)に、倭の奴国(なこく)の使節が後漢の都・洛陽に赴いて朝貢し、光武帝から印綬(印章と組み紐)を授与されたと記されている。この記述を裏付けるように、江戸時代の天明4年(1784年)、筑前国(現在の福岡県)の志賀島で「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)と刻まれた金印が発見された。この出来事は、倭の小国が中国の冊封体制に初めて本格的に組み込まれたことを意味し、日本列島の首長が東アジアの外交舞台に正式に登場した画期的な出来事であった。

倭国王帥升と生口の献上

『後漢書』東夷伝には、続いて永初元年(107年)の出来事として、倭国王帥升(わこくおうすいしょう)らが後漢の安帝に生口(せいこう:奴隷や捕虜)160人を献上したことが記録されている。ここで注目すべきは、「奴国」のような一地域の小国ではなく、「倭国王」という称号が用いられている点である。これは、1世紀末から2世紀初頭にかけて、日本列島内で複数の小国を束ねる政治的連合体が形成されつつあったことを示唆している。また、大量の生口を献上したことは、当時の倭国内で小国間の戦争が頻発し、捕虜が戦利品や奴隷として扱われていた状況を物語っている。

後漢の衰退と「倭国大乱」

2世紀後半に入ると、後漢は外戚や宦官の権力争いによって政治が腐敗し、184年の黄巾の乱を契機に急速に衰退へ向かった。奇しくもこの時期、倭国でも大規模な争乱が発生していた。『後漢書』東夷伝や『魏志』倭人伝に記される倭国大乱(桓帝・霊帝の間、倭国大いに乱れる)である。後漢の権威が失墜し、冊封体制による東アジアの秩序が動揺したことが、倭国内の政治バランスを崩し、大乱の遠因になったとも考えられる。その後、後漢は220年に滅亡して三国時代(魏・呉・蜀)へと移行し、倭国では争乱を収めた邪馬台国卑弥呼が、後漢に代わって華北を支配したへ遣使(239年)することとなる。後漢という巨大帝国の存在とその衰亡は、弥生時代の日本列島における国家形成のプロセスと密接に連動していたのである。

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