光武帝 (こうぶてい)
【概説】
中国・後漢の初代皇帝(劉秀)。新の王莽による混乱を平定して漢王朝を再興し、建武中元2年(57年)に朝貢してきた倭の奴国王に対して「漢委奴国王」の印綬(金印)を授けた人物。
後漢の建国と東アジアの国際秩序再編
光武帝、諱(いみな)を劉秀という。前漢の景帝の末裔にあたる皇族の一人であったが、王莽が建てた新(8年〜23年)の急進的な改革による政治的混乱と農民反乱(赤眉の乱など)のなかで頭角を現した。25年に皇帝に即位して洛陽を都と定め、漢王朝を復興させた。これが後漢である。彼は長きにわたる戦乱で疲弊した国内の平定と復興に尽力する一方で、周辺諸民族に対しても恩威並び行う外交を展開し、前漢時代に築かれていた東アジアの朝貢体制(華夷秩序)の再建を図った。この周辺外交の一環として、遠く海を越えた日本列島(倭)の動向も後漢の視野に入ることとなる。
『後漢書』東夷伝に記された「倭の奴国」との交流
日本史において光武帝が極めて重要な位置を占めるのは、南朝宋の范曄が編纂した中国の歴史書『後漢書』東夷伝の記述による。同書には、建武中元2年(57年)に「倭の奴国」の使者が洛陽の都を訪れ、光武帝から印綬を授けられたと記されている。奴国は現在の福岡県周辺に存在したと推定される有力な小国の一つであった。
光武帝が奴国王に与えたこの印綬こそが、のちに日本で発見される「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印である。当時の日本列島は弥生時代の中期から後期にかけての時期であり、各地でクニと呼ばれる小国が乱立し、激しい抗争を繰り広げていた。奴国王は、東アジアの絶対的な覇権国である後漢の皇帝から正式に王として承認される(冊封を受ける)ことで、他の小国に対する政治的・軍事的な優位性を確立しようとしたのである。
志賀島での金印発見による記述の裏付け
『後漢書』の記述は長らく文献上の記録にとどまっていたが、江戸時代の天明4年(1784年)、筑前国糟屋郡志賀島(現在の福岡県福岡市)で、農民の甚兵衛が農作業中に偶然一つの金印を発見したことで大きな転機を迎えた。この金印には「漢委奴国王」という五文字が刻まれており、福岡藩の儒学者である亀井南冥らが鑑定を行い、『後漢書』に記された光武帝が授けた印綬そのものであると比定された。
この発見により、1世紀中頃の日本列島に存在した国家が、実際に中国王朝と外交関係を持っていたことが考古学的に証明された。一辺が約2.3センチメートルという小さな純金の印は、光武帝の時代の東アジア外交と弥生時代の政治状況を現代に伝える一級の歴史的遺物(国宝)となっている。
弥生時代の日本と冊封体制の受容
光武帝による印綬の授与は、日本列島の勢力が中国を中心とする冊封体制(さくほうたいせい)に明確に組み込まれた最古の確実な事例である。光武帝側にとっても、遥か遠方の「東夷」である倭人が朝貢してきたことは、新の混乱から立ち直ったばかりの後漢王朝の徳が辺境にまで及んでいることを中華世界に誇示する絶好の機会であった。
この57年の出来事は、後の107年に倭国王帥升が安帝に生口(奴隷)を献上したことや、3世紀の邪馬台国の卑弥呼が魏に朝貢して「親魏倭王」の称号を得たことへと直接的に繋がっていく。光武帝との接触は、日本の権力者が国内の統治を有利に進めるため、積極的に中国王朝の権威を利用するという、古代日本外交の基本路線の出発点となったのである。