当山派 (とうざんは)
1613年〜1872年
【概説】
江戸幕府の公認を得て全国の山伏を統制した、真言宗系の修験道(山伏)の流派。京都の醍醐寺三宝院を総本山(門跡)とし、平安時代の僧・聖宝(理源大師)を祖と仰ぐ。天台宗系の本山派とともに、近世修験道における二大潮流を形成した。
歴史的出自と真言密教との結びつき
修験道は、日本古来の山岳信仰に仏教(特に密教)や神道、道教などが融合して成立した実践的な宗教である。そのなかで当山派は、9世紀に醍醐寺を開創した聖宝(理源大師)を宗祖として仰ぐ。聖宝が吉野の金峯山(大峰山)を再興し、真言密教の教理に基づいて山岳修行を行ったことが、当山派の起源と位置づけられている。
中世を通じて、吉野や熊野の霊山を拠点に組織化が進み、天台宗系の本山派(聖護院を本山とする)と並び立つ勢力となった。当山派は真言宗の当山派として、独自の教義と加持祈祷の儀礼を確立し、地方の霊山や民衆へと信仰を広げていった。
江戸幕府による「修験道法度」と統制システム
江戸時代に入ると、宗教勢力を幕藩体制の一部として組み込もうとする江戸幕府により、大きな転換期を迎える。1613年(慶長18年)、幕府は「修験道法度」を制定した。これにより、全国の山伏は天台宗系の本山派か、真言宗系の当山派のいずれか一方に所属することが義務づけられ、独自の活動を行う野良山伏は排除された。
当山派は、醍醐寺三宝院を頂点とし、地方に置かれた「院家(いんげ)」を通じて組織を統制するシステム(当山派の地方組織構造)を構築した。この公認制度により、当山派は幕府の統制下で安泰を得るとともに、民衆の間で雨乞いや病気平癒などの祈祷を行う調伏・呪術の担い手として広く浸透した。この組織体制は、1872年(明治5年)に明治政府が下した修験道廃止令によって強制的に解体されるまで存続した。